神皇正統記 / 巻三 第四十五代 聖武天皇
第四十五代、聖武天皇は文武の太子。御母皇太夫人藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女也。豊桜彦の尊と申。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子年即位、改元。平城宮にまします。此御代大に仏法をあがめ給こと先代にこえたり。東大寺を建立し、金銅十六丈の仏をつくらる。又諸国に国分寺及国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝両部の経を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝す。南天竺の波羅門僧正、林邑の仏哲、唐の鑒真和尚等是也。真言の祖師、中天竺の善無畏三蔵も来給へりしが、密機いまだ熟せずとてかへり給にけりともいへり。此国にも行基菩薩・朗弁僧正など権化人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖とぞ申伝へたる。此御時太宰少弐藤原広継と云人謀叛のきこえあり、追討せらる。祈祷のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣長屋王つみありて誅せらる。又陸奥国より始て黄金をたてまつる。此朝に金ある始なり。国の司の王、賞ありて三位に叙す。
書き下し
第四十五代、聖武天皇は文武の太子。御母皇太夫人藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女也。豊桜彦の尊と申。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子年即位、改元。平城宮にまします。此御代大に仏法をあがめ給こと先代にこえたり。東大寺を建立し、金銅十六丈の仏をつくらる。又諸国に国分寺及国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝両部の経を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝す。南天竺の波羅門僧正、林邑の仏哲、唐の鑑真和尚等是也。真言の祖師、中天竺の善無畏三蔵も来給へりしが、密機いまだ熟せずとてかへり給にけりともいへり。此国にも行基菩薩・朗弁僧正など権化人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖とぞ申伝へたる。此御時太宰少弐藤原広継と云人謀叛のきこえあり、追討せらる。祈祷のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣長屋王つみありて誅せらる。又陸奥国より始て黄金をたてまつる。此朝に金ある始なり。国の司の王、賞ありて三位に叙す。
現代語訳
第四十五代、聖武天皇は文武天皇の太子である。母は皇太夫人の藤原宮子で、淡海公不比等大臣の娘である。豊桜彦尊(とよさくらひこのみこと)と申し上げる。幼くいらっしゃったので、元明・元正がまず位に即かれたのである。甲子の年に即位し、改元された。平城宮におられた。この御代には大いに仏法を崇められたことが先代を超えていた。東大寺を建立し、金銅の十六丈の仏を造られた。また諸国に国分寺と国分尼寺を建て、国土の安穏のために法華経・最勝王経の二部の経を講じさせられた。また多くの高僧が他国から来朝した。南天竺の婆羅門僧正(菩提僊那)、林邑の仏哲、唐の鑑真和尚などである。真言の祖師である中天竺の善無畏三蔵も来られたが、密教を受ける機がまだ熟していないとしてお帰りになったともいう。この国でも行基菩薩・朗弁僧正(良弁)などは仏の化身である。天皇・婆羅門僧正・行基・朗弁を四聖と申し伝えている。この御時、大宰少弐藤原広継(広嗣)という人に謀反の噂があり、追討された。祈祷のために天平十二年十月に伊勢の神宮に行幸があった。また左大臣長屋王が罪があって誅された。また陸奥国からはじめて黄金を献上した。この国朝に金があることの始めである。国司の王は恩賞を受けて三位に叙された。
解説
関連する章句
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