神皇正統記 / 巻三 第三十六代 皇極天皇
昔天孫あまくだり給し時、諸神の上首にて、此命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云ことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にまし〳〵しかば、祭をつかさどるは即政をとれる也。其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給。御名を皇祖母の尊とぞ申ける。
書き下し
昔天孫あまくだり給し時、諸神の上首にて、此命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云ことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にましまししかば、祭をつかさどるは即政をとれる也。其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給。御名を皇祖母の尊とぞ申ける。
現代語訳
昔、天孫が天降られたとき、(天児屋根命は)諸神の筆頭として、とりわけ天照太神の勅命を受けて補佐の神であられた。中臣というのも、二柱の神の御仲にあって、神の御心を和らげて申し上げられたからであるという。その孫の天種子命(あめのたねこのみこと)は、神武天皇の御代に祭事をつかさどった。上古は神と天皇とが一つであられたので、祭りをつかさどることはすなわち政治を執ることであった。その後、天照太神がはじめて伊勢国にお鎮まりになったとき、種子命の末の大鹿嶋命(おおかしまのみこと)が祭官となり、鎌足大臣の父の御食子(みけこ)までもその官で仕えていた。鎌足に至って大きな勲功を立て、世に重んじられたことで、祖先の業を興し先祖の功績を輝かされたのは、まことに尊いことである。一つには神代からの遺風であるから、そうあるべき道理であると思われる。のちに内臣に任じられ大臣に転じ、大織冠となった。また中臣を改めて藤原の姓を賜った。この天皇が天下を治められたのは三年で、同じ母の弟の軽王に位を譲られた。御名を皇祖母尊(すめみおやのみこと)と申し上げた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす。六代の朝につかへて執政たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立かへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。
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『神皇正統記』巻四 第五十八代 光孝天皇古すら猶かゝる理にて天位を嗣給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂籙の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
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『神皇正統記』巻三 第三十九代 天智天皇御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第三十六代 皇極天皇第三十六代、皇極天皇は茅渟王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇々后とし給。天智・天武の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、壬寅の年即位。大倭明日香河原の宮にまします。此時に蘇我蝦夷の大臣ならびにその子入鹿、朝権を専にして皇家をないがしろにする心あり。其家を宮門と云、諸子を王子となむ云ける。上古よりの国紀重宝みな私家にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくましまししをほろぼし奉る。こゝに皇子中の大兄と申は舒明の御子、やがて此天皇御所生也。中臣鎌足の連と云人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしかども、積悪のゆゑにやみな滅ぬ。山田石川丸と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ滅せざりける。此鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世の孫也。
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『神皇正統記』巻二 第十一代 垂仁天皇第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母御間城姫、大彦の命女也。壬辰の年即位。大和の巻向の珠城の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳冬十月甲子に伊勢国度会郡五十鈴川上に宮所をしめ、高天の原に千木高知下都磐根に大宮柱広敷立てしづまりましましぬ。此所は昔天孫あまくだり給し時、猨田彦の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭姫の命、宮所を尋給しに、大田の命と云人まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猨田彦の神の苗裔なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の図形などあり。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣の祖大鹿嶋の命を祭主とす。又大幡主と云人を太神主になし給。これより皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おましましき。
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