神皇正統記 / 巻三 第三十七代 孝徳天皇
第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。乙巳年即位。摂津国長柄豊崎の宮にまします。此御時はじめて大臣を左右にわかたる。大臣は成務の御時武内の宿禰はじめてこれに任ず。仲哀の御代に又大連の官をゝかる。大臣・大連ならびて政をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おまし〳〵き。
新字:第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。乙巳年即位。摂津国長柄豊崎の宮にまします。此御時はじめて大臣を左右にわかたる。大臣は成務の御時武内の宿祢はじめてこれに任ず。仲哀の御代に又大連の官をゝかる。大臣・大連ならびて政をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おまし〳〵き。
書き下し
第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。乙巳年即位。摂津国長柄豊崎の宮にまします。此御時はじめて大臣を左右にわかたる。大臣は成務の御時武内の宿禰はじめてこれに任ず。仲哀の御代に又大連の官をゝかる。大臣・大連ならびて政をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おましましき。
現代語訳
第三十七代、孝徳天皇は皇極天皇と同じ母の弟である。乙巳の年に即位された。摂津国の長柄豊崎宮(ながらのとよさきのみや)におられた。この御時にはじめて大臣を左右に分けられた。大臣の官は、成務天皇の御時に武内宿禰がはじめてこれに任じられた。仲哀天皇の御代にまた大連の官を置かれた。大臣と大連が並んで政治を執った。この御時に大連をやめて左右の大臣とした。また八省百官を定められた。中臣鎌足を内臣とされた。天下を治められたのは十年で、五十歳であられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻三 第三十九代 天智天皇御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。
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