神皇正統記 / 巻三 第三十九代 天智天皇
御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おまし〳〵き。
書き下し
御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。
現代語訳
第三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明天皇の御子である。母は皇極天皇である。壬戌の年に即位された。近江国の大津宮におられた。即位四年の八月に内臣鎌足を内大臣・大織冠とした。また藤原朝臣の姓を賜った。昔の大きな勲功を賞されたので、朝廷からの褒賞は並ぶものがなかった。前後に与えられた封戸は一万五千戸である。病の間にも行幸して見舞われたという。この天皇は中興の祖であられる。国忌(先帝の命日の法会)は時代に従って改まるものであるが、この天皇のものは永く変わらないことになった。天下を治められたのは十年で、五十八歳であられた。
解説
天智天皇は第二十五世とされ、正統の筋に立つ。親房はこの天皇を「中興の祖」と呼ぶ。国忌、すなわち歴代天皇の命日の法会は時代とともに入れ替わるが、天智の国忌だけは永く変わらなかったと書き添えて、その位置の特別さを示している。のちの天皇が天智の系統から出ることになるからである。記事の多くは鎌足への厚遇に割かれる。内大臣・大織冠とし、藤原朝臣の姓を与え、封戸は一万五千戸、病床には自ら見舞った。乙巳の変をともに成し遂げた臣への信頼が、具体的な処遇として記録されている。君が功臣を篤く遇し、臣がその家を代々の補佐として続けていく。親房が理想とする君臣の関係の原型が、天智と鎌足に置かれている。功績に報いることは、その後長く続く信頼の土台になる。
関連する章句
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