神皇正統記 / 巻三 第三十六代 皇極天皇
第三十六代、皇極天皇は茅渟王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇々后とし給。天智・天武の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、壬寅の年即位。大倭明日香河原の宮にまします。此時に蘇我蝦夷の大臣ならびにその子入鹿、朝権を専にして皇家をないがしろにする心あり。其家を宮門と云、諸子を王子となむ云ける。上古よりの国紀重宝みな私家にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまし〳〵しをほろぼし奉る。こゝに皇子中の大兄と申は舒明の御子、やがて此天皇御所生也。中臣鎌足の連と云人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしかども、積悪のゆゑにやみな滅ぬ。山田石川丸と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ滅せざりける。此鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世[の]孫也。
新字:第三十六代、皇極天皇は茅渟王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曽孫也。御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇々后とし給。天智・天武の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、壬寅の年即位。大倭明日香河原の宮にまします。此時に蘇我蝦夷の大臣ならびにその子入鹿、朝権を専にして皇家をないがしろにする心あり。其家を宮門と云、諸子を王子となむ云ける。上古よりの国紀重宝みな私家にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまし〳〵しをほろぼし奉る。こゝに皇子中の大兄と申は舒明の御子、やがて此天皇御所生也。中臣鎌足の連と云人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしかども、積悪のゆゑにやみな滅ぬ。山田石川丸と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ滅せざりける。此鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世[の]孫也。
書き下し
第三十六代、皇極天皇は茅渟王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇々后とし給。天智・天武の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、壬寅の年即位。大倭明日香河原の宮にまします。此時に蘇我蝦夷の大臣ならびにその子入鹿、朝権を専にして皇家をないがしろにする心あり。其家を宮門と云、諸子を王子となむ云ける。上古よりの国紀重宝みな私家にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくましまししをほろぼし奉る。こゝに皇子中の大兄と申は舒明の御子、やがて此天皇御所生也。中臣鎌足の連と云人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしかども、積悪のゆゑにやみな滅ぬ。山田石川丸と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ滅せざりける。此鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世の孫也。
現代語訳
第三十六代、皇極天皇は茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘で、忍坂大兄皇子の孫、敏達天皇の曾孫である。母は吉備姫女王(きびひめのおおきみ)と申し上げた。舒明天皇が皇后とされた。天智天皇・天武天皇の母である。舒明天皇が崩御されて、皇子が幼くいらっしゃったので、壬寅の年に即位された。大和の明日香河原宮におられた。この時、蘇我蝦夷大臣とその子の入鹿が朝廷の権力をほしいままにして、皇室をないがしろにする心があった。その家を宮門(みかど)と呼び、子どもたちを王子と呼んだ。上古からの国の記録や重宝はみな私邸に運び置いてしまった。中でも入鹿は道に背く心がはなはだしかった。聖徳太子の御子たちが何の罪もなくおられたのを滅ぼし申し上げた。ここに中大兄皇子と申し上げる方は舒明天皇の御子で、すなわちこの天皇がお産みになった方である。中臣鎌足連(なかとみのかまたりのむらじ)という人と心を一つにして入鹿を殺した。父の蝦夷も家に火をつけて死んだ。国の記録や重宝はみな焼けてしまった。蘇我の一門は長く権力を握っていたが、積み重ねた悪のためであろうか、みな滅んだ。山田石川丸(蘇我倉山田石川麻呂)という人だけは皇子と心を通わせ申し上げていたので滅びなかった。この鎌足大臣は天児屋根命の二十一世の孫である。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻三 第四十代 天武天皇第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にましましき。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をゝそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を遙拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しなじなによりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第三十五代 舒明天皇第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも敏達の御女也。推古天皇は聖徳太子の御子に伝へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。又太子御病にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の申付給へりけるとぞ。癸丑年即位。大倭の高市郡岡本の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第三十九代 天智天皇御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第三十六代 皇極天皇昔天孫あまくだり給し時、諸神の上首にて、此命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云ことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にましまししかば、祭をつかさどるは即政をとれる也。其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給。御名を皇祖母の尊とぞ申ける。
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『神皇正統記』巻三 第三十三代 崇峻天皇第三十三代、崇峻天皇は欽明第十二の子。御母小姉君の娘。これも稲目の大臣の女也。戊申年即位。大和の倉橋の宮にまします。天皇横死の相みえ給。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子奏給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おましましき。或人の云ふ。外舅蘇我の馬子大臣と御中あしくして、彼大臣のためにころされ給きともいへり。
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