神皇正統記 / 巻二 第十六代 応神天皇
異朝にも人の心まち〳〵なれば、異学の輩の云出せる事歟。後漢書よりぞ此国のことをばあら〳〵しるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕、真根子と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでゝ、とがなきよしを明められにき。上古神霊の主猶かゝるあやまちまし〳〵しかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おまし〳〵き。欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形の池と云所にあらはれ給、「われは人皇十六代誉田の八幡丸なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号也。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣ありき。仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。
書き下し
異朝にも人の心まちまちなれば、異学の輩の云出せる事歟。後漢書よりぞ此国のことをばあらあらしるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕、真根子と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでゝ、とがなきよしを明められにき。上古神霊の主猶かゝるあやまちましまししかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おましましき。欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形の池と云所にあらはれ給、「われは人皇十六代誉田の八幡丸なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号也。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣ありき。仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。
現代語訳
異国でも人の心はまちまちなので、異説を学ぶ者が言い出したことであろうか。後漢書からこの国のことをあらあら記している。符合することもあり、また納得できないこともあるようだ。唐書には、日本の皇代記を神代から光孝天皇の御代まで明らかに載せている。さてもこの御時、武内大臣が筑紫を治めるためにかの国に遣わされていたころ、弟の讒言によって、すでに追討されようとしたが、大臣の僕に真根子という人がいた。顔かたちが大臣に似ていたので、身代わりとなって誅された。大臣はひそかに都に上って、罪のないことを明らかにされた。上古の神霊のような君主でさえ、なおこのような過ちがおありだったのだから、末の世ではどうして慎まれずにいられようか。天皇が天下を治められたことは四十一年。百十一歳でいらっしゃった。欽明天皇の御代に初めて神として現れて、筑紫の肥後国の菱形の池という所に現れられ、「われは人皇十六代誉田の八幡丸である」とおっしゃった。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号である。後に豊前国の宇佐の宮に鎮まられたので、聖武天皇が東大寺を建立された後、八幡神が巡礼なさるべきである旨の託宣があった。そこで威儀を整えてお迎え申しあげられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇其故にや行教和尚には弥陀三尊の形にてみえさせ給けり。光明袈裟の上にうつらせましましけるを頂戴して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山説妙法華経。」とも、或は弥勒なりとも、大自在王菩薩なりとも託宣し給。中にも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を済度し給本誓を、能々思入てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へましまししことの起は、さきにもしるし侍ぬ。又雄略天皇二十二年の冬十一月に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷出て後、神主物忌等ばかり留たりしに、皇太神・豊受の太神、倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以て先とし、冥はくはふるに正直を以て本とす。」とあり。同二十三年二月、かさねて託宣し給しに、「日月は四州をめぐり、六合を照すと云ども正直の頂を照すべし。」
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請し奉らる。されど勅使などは宇佐にまゐりき。清和の御時、大安寺の僧、行教宇佐にまうでたりしに、霊告ありて、今の男山石清水にうつりまします。爾来行幸も奉幣も石清水にあり。一代一度宇佐へも勅使をたてまつらる。昔天孫天降給し時、御供の神八百万ありき。大物主の神したがへて天へのぼりしも、八十万の神と云り。今までも幣帛を奉まつらるゝ神、三千余坐也。しかるに天照太神の宮にならびて、二所の宗廟とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御託宣に「得道来不動法性。示八正道垂権迹。皆得解脱苦衆生。故号八幡大菩薩。」とあり。八正とは、内典に、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正恵、是を八正道と云ふ。凡心正なれば身口はおのづからきよまる。三業に邪なくして、内外真正なるを諸仏出世の本懐とす。神明の垂迹も又これがためなるべし。又八方に八色の幡を立ることあり。密教の習、西方阿弥陀の三昧耶形也。
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇第十六代、第十五世、応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中の天皇とも、又は誉田天皇ともなづけたてまつる。庚寅年即位。大和の軽嶋豊明の宮にまします。此時百済より博士をめし、経史をつたへられ、太子以下これをまなびならひき。此国に経史及文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開て後、すさのをの尊韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神の御すゑなれば、なにしにか代くだれる呉太伯が後にあるべき。三韓・震旦に通じてより以来、異国の人おほく此国に帰化しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録と云文をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。
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『神皇正統記』巻三 第三十代 欽明天皇群臣の諌によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云者とり奉て、信濃の国に安置し申き。今の善光寺これ也。此御時八幡大菩薩始て垂迹しまします。天皇天下を治給こと三十二年。八十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻四 第六十代 醍醐天皇善相公清行朝臣はこの事いまだきざゝざりしに、かねてさとりて菅氏に災をのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事出来にき。さきにも申はべりし、我国には幼主の立給こと昔はなかりしこと也。貞観・元慶の二代始て幼にて立玉ひしかば、忠仁公・昭宣公摂政にて天下を治らる。此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政をしらせましましける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。其趣経書にみえたり。されば曾子は、「吾日三省吾躬。」と云、季文子は「三思。」とも云ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよいよつゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も讒をきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双なり。末世の益をほどこさんためにや。讒を入し大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰をかうぶりにき。
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『神皇正統記』巻二 第十五代 神功皇后皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内の大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。
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