神皇正統記 / 巻二 第十六代 応神天皇
又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請し奉らる。されど勅使などは宇佐にまゐりき。清和の御時、大安寺の僧、行教宇佐にまうでたりしに、霊告ありて、今の男山石清水にうつりまします。爾来行幸も奉幣も石清水にあり。一代一度宇佐へも勅使をたてまつらる。昔天孫天降給し時、御供の神八百万ありき。大物主の神したがへて天へのぼりしも、八十万の神と云り。今までも幣帛を奉まつらるゝ神、三千余坐也。しかるに天照太神の宮にならびて、二所の宗廟とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御託宣に「得道来不動法性。示八正道垂権迹。皆得解脱苦衆生。故号八幡大菩薩。」とあり。八正とは、内典に、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正恵、是を八正道と云ふ。凡心正なれば身口はおのづからきよまる。三業に邪なくして、内外真正なるを諸仏出世の本懐とす。神明の垂迹も又これがためなるべし。又八方に八色の幡を立ることあり。密教の習、西方阿弥陀の三昧耶形也。
書き下し
又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請し奉らる。されど勅使などは宇佐にまゐりき。清和の御時、大安寺の僧、行教宇佐にまうでたりしに、霊告ありて、今の男山石清水にうつりまします。爾来行幸も奉幣も石清水にあり。一代一度宇佐へも勅使をたてまつらる。昔天孫天降給し時、御供の神八百万ありき。大物主の神したがへて天へのぼりしも、八十万の神と云り。今までも幣帛を奉まつらるゝ神、三千余坐也。しかるに天照太神の宮にならびて、二所の宗廟とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御託宣に「得道来不動法性。示八正道垂権迹。皆得解脱苦衆生。故号八幡大菩薩。」とあり。八正とは、内典に、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正恵、是を八正道と云ふ。凡心正なれば身口はおのづからきよまる。三業に邪なくして、内外真正なるを諸仏出世の本懐とす。神明の垂迹も又これがためなるべし。又八方に八色の幡を立ることあり。密教の習、西方阿弥陀の三昧耶形也。
現代語訳
また神託があって御出家の儀があった。すぐにかの寺(東大寺)に勧請し申しあげた。けれども勅使などは宇佐に参った。清和天皇の御時、大安寺の僧の行教が宇佐に参詣したところ、霊告があって、今の男山の石清水に移られた。それ以来、行幸も奉幣も石清水にある。一代に一度は宇佐へも勅使を奉られる。昔、天孫が天降られたとき、お供の神は八百万あった。大物主神が従えて天へ上ったのも八十万の神という。今でも幣帛を奉られる神は三千余座である。それなのに天照大神の宮と並べて、二所の宗廟として八幡を仰ぎ申されることは、まことに尊いことである。八幡と申す御名は、御託宣に「得道してより来このかた法性を動かさず。八正道を示して権迹を垂る。皆苦の衆生を解脱することを得しむ。故に八幡大菩薩と号す」とある。八正というのは、仏典に、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正恵、これを八正道という。およそ心が正しければ、身と口は自然と清まる。身口意の三業に邪なく、内も外も真に正しいことを、諸仏が世に出られる本懐とする。神明が垂迹されるのもまたこのためであろう。また八方に八色の幡を立てることがある。密教の習わしでは、西方阿弥陀の三昧耶形である。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇其故にや行教和尚には弥陀三尊の形にてみえさせ給けり。光明袈裟の上にうつらせましましけるを頂戴して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山説妙法華経。」とも、或は弥勒なりとも、大自在王菩薩なりとも託宣し給。中にも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を済度し給本誓を、能々思入てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へましまししことの起は、さきにもしるし侍ぬ。又雄略天皇二十二年の冬十一月に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷出て後、神主物忌等ばかり留たりしに、皇太神・豊受の太神、倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以て先とし、冥はくはふるに正直を以て本とす。」とあり。同二十三年二月、かさねて託宣し給しに、「日月は四州をめぐり、六合を照すと云ども正直の頂を照すべし。」
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『神皇正統記』巻二 第十六代 応神天皇異朝にも人の心まちまちなれば、異学の輩の云出せる事歟。後漢書よりぞ此国のことをばあらあらしるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕、真根子と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでゝ、とがなきよしを明められにき。上古神霊の主猶かゝるあやまちましまししかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おましましき。欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形の池と云所にあらはれ給、「われは人皇十六代誉田の八幡丸なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号也。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣ありき。仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。
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『神皇正統記』巻四 第五十六代 清和天皇太政大臣このことをきゝ驚遽られけるあまりに、烏帽子直衣をきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。此大臣の忠節まことに無止ことになん。天皇仏法に帰給て、つねに脱屣の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を授奉らる。素真と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔隋煬帝の晋王と云し時、天台の智者に受戒して惣持と云名をつかれたりし、よからぬ君の例なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水にうつり給。天皇聞食て勅使をつかはし、その所を点じ、もろもろのたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬せらる。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波の水尾と云所にうつらせ給て、練行しましゝが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第三十代 欽明天皇群臣の諌によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云者とり奉て、信濃の国に安置し申き。今の善光寺これ也。此御時八幡大菩薩始て垂迹しまします。天皇天下を治給こと三十二年。八十一歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第四十八代 称徳天皇女帝さすが思わづらひ給けるにや、和気清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。大菩薩さまざま託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのまゝに奏聞す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇出来てそのきずをいやしけり。光仁位につき給しかば、即めしかへさる。神威をたうとび申て、河内国に寺を立て、神願寺と云ふ。後に高雄の山にうつし立。今の神護寺これなり。件のころまでは神威もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。
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『神皇正統記』巻一 天神七代宝山にとゞまりて不動のしるしとなりけんことや正説なるべからん。龍田も宝山ちかき所なれば、龍神を天柱国柱といへるも、深秘の心あるべきにや。日本紀・旧事本紀・古語拾遺等にのせざらん事は末学の輩ひとへに信用しがたかるべし。彼書の中猶一決せざること多し。況異書におきては正とすべからず。かくて、此二神相はからひて八の嶋をうみ給ふ。先、淡路の州をうみます。淡路穂之狭別と云ふ。次、伊与の二名の州をうみます。一身に四面あり。一を愛比売と云、これは伊与也。二を飯依比売と云、是は讃岐也。三を大宜都比売と云、これは阿波也。四を速依別と云、是は土左也。次、筑紫の州をうみます。又一身に四面あり。一を白日の別と云、是は筑紫也。後に筑前・筑後と云ふ。二を豊日別と云、これは豊国也。後に豊前・豊後と云ふ。三を昼日別と云、是は肥の国也。後に肥前・肥後と云ふ。四を豊久士比泥別と云、是は日向也。後に日向・大隅・薩摩と云。次、壱岐の国をうみます。天比登都柱と云ふ。次、対馬の州をうみます。天之狭手依比売と云ふ。
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