神皇正統記 / 巻二 第十一代 垂仁天皇
第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母御間城姫、大彦の命女也。壬辰の年即位。大和の巻向の珠城の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳冬十月甲子に伊勢国度会郡五十鈴川上に宮所をしめ、高天の原に千木高知下都磐根に大宮柱広敷立てしづまりまし〳〵ぬ。此所は昔天孫あまくだり給し時、猨田彦の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭姫の命、宮所を尋給しに、大田の命と云人まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猨田彦の神の苗裔なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の図形などあり。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣の祖大鹿嶋の命を祭主とす。又大幡主と云人を太神主になし給。これより皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おまし〳〵き。
書き下し
第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母御間城姫、大彦の命女也。壬辰の年即位。大和の巻向の珠城の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳冬十月甲子に伊勢国度会郡五十鈴川上に宮所をしめ、高天の原に千木高知下都磐根に大宮柱広敷立てしづまりましましぬ。此所は昔天孫あまくだり給し時、猨田彦の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭姫の命、宮所を尋給しに、大田の命と云人まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猨田彦の神の苗裔なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の図形などあり。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣の祖大鹿嶋の命を祭主とす。又大幡主と云人を太神主になし給。これより皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おましましき。
現代語訳
第十一代、垂仁天皇は崇神天皇の第三の子。御母は御間城姫で、大彦命の娘である。壬辰の年に即位。大和の巻向の珠城の宮においでになる。この御時、皇女の倭姫命が豊鋤入姫命に代わって天照大神をお祀り申しあげる。神のお教えにより、なお国々をめぐって、二十六年丁巳の冬十月甲子に、伊勢国度会郡の五十鈴川の川上に宮所を定め、高天原に千木を高くそびえさせ、地の底の磐根に大宮柱を太く敷き立てて鎮まられた。この所は昔天孫が天降られたとき、猿田彦神が参り会って「私は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に行くつもりだ」と申した所である。倭姫命が宮所を尋ねられたとき、大田命という人が参り会って、この所をお教え申しあげた。この命は昔の猿田彦神の子孫であるという。その川上に五十鈴や天上の図形などがあった。大田命は「八万年の間お守りしあがめ申しあげてきた」と申したという。こうして中臣の祖の大鹿嶋命を祭主とした。また大幡主という人を太神主とされた。これより皇大神とあがめ申しあげて、天下第一の宗廟でいらっしゃる。この天皇が天下を治められたことは九十九年。百四十歳でいらっしゃった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻一 天神七代又垂仁天皇の御宇に、大和姫の皇女、天照太神の御をしへのまゝに国々をめぐり、伊勢国に宮所をもとめ給し時、大田の命と云神まゐりあひて、五十鈴の河上に霊物をまぼりおける所をしめし申しに、かの天の逆矛・五十鈴・天宮の図形ありき。大和姫の命よろこびて、其所をさだめて、神宮をたてらる。霊物は五十鈴の宮の酒殿にをさめられきとも、又、滝祭の神と申は龍神なり、その神あづかりて地中にをさめたりとも云ふ。一には大和の龍田の神はこの滝祭と同体にます、此神のあづかり給へる也、よりて天柱国柱と云ふ御名ありとも云ふ。昔磤馭盧嶋に持くだり給しことはあきらか也。世に伝と云事はおぼつかなし。天孫のしたがへ給ならば、神代より三種の神器のごとく伝へ給べし。さしはなれて、五十鈴の河上に有けんもおぼつかなし。但天孫も玉矛者みづからしたがへ給と云事見たり。しかれど矛も大汝の神のたてまつらるゝ、国をたひらげし矛もあれば、いづれと云事をしりがたし。
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『古語拾遺』笠縫邑と五十鈴川仍りて倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立て、天照大神及び草薙剣を遷し奉り、皇女豊鍬入姫命をして斎い奉らしむ。其の遷し祭る夕、宮人皆参りて、終夜宴楽す。歌いて曰く、「美夜比登能(みやひとの)、於保与須我良爾(おほよすがらに)、伊佐登保志(いさとほし)、由伎能与呂志茂(ゆきのよろしも)、於保与須我良爾(おほよすがらに)」と。又六年、八十万の群神を祭り、仍りて天社・国社及び神地・神戸を定む。始めて男の弭の調、女の手末の調を貢らしむ。今、神祇の祭に熊の皮・鹿の皮・角・布等を用うるは、此の縁なり。巻向玉城朝に洎びて、皇女倭姫命をして天照大神を斎い奉らしむ。仍りて神の教えに随いて、其の祠を伊勢国の五十鈴の川上に立て、因りて斎宮を興して倭姫命をして居らしむ。始め天上に在りて、預め幽契を結ぶ。衢神先に降る、深く以有るかな。此の御世、始めて弓矢・刀を以て神祇を祭り、更に神地・神戸を定む。又新羅の王子海檜槍来帰す。今但馬国出石郡に在りて大社と為るなり。纏向日代朝に至りて、
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『神皇正統記』巻三 第二十二代 雄略天皇第二十二代、雄略天皇は允恭第五の子、安康同母の弟也。大泊瀬尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王及円の大臣を誅せらる。あまさへ其の事にくみせられざりし市辺押羽皇子をさへにころして位に即給。ことし丁酉の年也。大和の泊瀬朝倉の宮にまします。天皇性猛ましましけれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳冬十月に、伊勢の皇太神大和姫の命にをしへて、丹波国与佐の魚井の原よりして豊受太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞し給しによりて、明年戊午の秋七月に勅使をさしてむかへたてまつる。九月に度会の郡山田の原の新宮にしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴の宮に遷らしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武の始よりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで大倭姫の命存生し給しかば、内外宮のつくりも、日の小宮の図形・文形によりてなさせ給けりとぞ。抑此神の御事異説まします。外宮には天祖天御中主の神と申伝たり。されば皇太神の託宣にて、此宮の祭を先にせらる。
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『神皇正統記』巻二 第十代 崇神天皇第十代、崇神天皇は開化第二の子。御母伊香色謎姫、太綜麻杵の命の女也。甲申の歳即位。大和の磯城の瑞籬の宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百余になりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年己丑年神代の鏡造の石凝姥の神のはつこをめして鏡をうつし鋳せしめ、天目一箇の神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀の郡にして、此両種をうつしあらためられて、護身の璽として同殿に安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女豊鋤入姫の命につけて、大和の笠縫の邑と云所に神籬をたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居各別になれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴て所々をめぐり給けり。十年の秋、大彦命を北陸に遣し、武渟川別の命を東海に、吉備津彦命を西道に、丹波の道主の命を丹波に遣す。ともに印綬を給て将軍とす。天皇の叔父武埴安彦の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を止て、まづ追討しつ。冬十月に将軍発路す。十一年の夏、四道の将軍戎夷を平ぬるよし復命す。六十五年秋任那の国、使をさして御つきをたてまつる。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おましましき。
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『神皇正統記』巻三 第三十六代 皇極天皇昔天孫あまくだり給し時、諸神の上首にて、此命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云ことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にましまししかば、祭をつかさどるは即政をとれる也。其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましゝ時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給。御名を皇祖母の尊とぞ申ける。
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『神皇正統記』巻二 第十七代 仁徳天皇第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫の命、五百城入彦皇子女也。大鷦鷯の尊と申。応神の御時、菟道稚皇子と申は最末の御子にてましまししをうつくしみ給て、太子に立むとおぼしめしけり。兄の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神悦まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐になん定め給ける。応神かくれましまししかば、御兄達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を一にして彼を誅せられき。爰太子天位を尊に譲給。尊堅くいなみ給、三年になるまで互に譲て位を空す。太子は山城の宇治にます。尊は摂津の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁となりしかば、太子みづから失給ぬ。尊おどろき歎給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉の年即位。摂津国難波高津の宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。
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