中朝事実 / 祭祀章・神鏡の遷座と伊勢内宮の鎮座
一書曰。崇神帝六年乙丑秋九月。倭國笠縫邑。立磯城神籬。奉遷天照太神及草薙劒。令皇女豐鍬入姬奉齋。更令齋部氏率石凝姥神裔天目一神裔二氏。更鑄鏡造劒。以爲護御璽。是今踐祚之日所獻神璽鏡劒也。仍其遷祭之夕。宮人皆參。終夜宴樂。歌曰。美夜比登能。於保與須我良爾。伊佐登保志。由伎能與呂志茂。〔今俗歌曰。美夜比止乃。於保與曾許侶茂。比佐止保志。由伎乃與保志茂。於保與曾許侶茂。詞之轉也。〕 謹按。是別建神籬之始也。神籬乃神社之義。宗廟之制也。〔以上祭祀天地宗廟〕 七年冬十一月。別祭八十萬神。仍定天社國社及神地神戶。 謹按。是祭群臣之始也。天社者。社稷宗廟之名。國社者。郡國之名山大川所其由祭之神社也。神地神戶者。事神之祠官奉祭祠之田園也。國家有事。則徧告群神。以致其誠。是禮之恒也。〔以上祭群神〕 垂仁帝二十五年春三月丁亥朔丙申。離天照太神於豐耜姬命。託于倭姬命。爰倭姬命求鎭坐大神之處。而詣莵田筱幡。〔筱此云佐佐〕更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。時天照太神誨倭姬命曰。是神風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨太神敎。其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照太神始自天降之處也。 一書曰。天皇以倭姬命爲御杖。貢奉於天照太神。是以倭姬命以天照太神鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨神誨。取丁巳年冬十月甲子。遷于伊勢國渡遇宮。〔舊記云。內宮號者。內者宇犀鄕本名。因稱內宮。〕 謹按。是伊勢國內宮鎭坐之始也。蓋神者以天下爲體。以黎元爲本。天之覆而明。地之載而厚。人物之爲人物。神皆體之不遺。移其靈於神鏡。以照皇統之化。垂其迹於渡遇。以存億世之敬。茅屋乎大廟。不鑿乎粢食。以示令德。仰彌高。崇彌靈。朝廷既置內侍所。天子旦暮拜恭。不改往古之道矣。禁僧尼。絕梵釋。顯聖敎之在人倫。縣象著明。示其道之在知德。其洋洋乎彌綸于四海。巍巍乎經緯于萬物。是神之德也。然乃明人倫日用之道。五典惟秩。三德惟致。則當猶視吾之。神勅豈夫空乎。〔以上內宮鎭坐〕
新字:一書曰。崇神帝六年乙丑秋九月。倭国笠縫邑。立磯城神籬。奉遷天照太神及草薙劒。令皇女豊鍬入姫奉斎。更令斎部氏率石凝姥神裔天目一神裔二氏。更鋳鏡造劒。以為護御璽。是今践祚之日所献神璽鏡劒也。仍其遷祭之夕。宮人皆参。終夜宴楽。歌曰。美夜比登能。於保与須我良爾。伊佐登保志。由伎能与呂志茂。〔今俗歌曰。美夜比止乃。於保与曽許侶茂。比佐止保志。由伎乃与保志茂。於保与曽許侶茂。詞之転也。〕 謹按。是別建神籬之始也。神籬乃神社之義。宗廟之制也。〔以上祭祀天地宗廟〕 七年冬十一月。別祭八十万神。仍定天社国社及神地神戸。 謹按。是祭群臣之始也。天社者。社稷宗廟之名。国社者。郡国之名山大川所其由祭之神社也。神地神戸者。事神之祠官奉祭祠之田園也。国家有事。則遍告群神。以致其誠。是礼之恒也。〔以上祭群神〕 垂仁帝二十五年春三月丁亥朔丙申。離天照太神於豊耜姫命。託于倭姫命。爰倭姫命求鎮坐大神之処。而詣莵田筱幡。〔筱此云佐佐〕更還之入近江国。東廻美濃到伊勢国。時天照太神誨倭姫命曰。是神風伊勢国。則常世之浪重浪帰国也。傍国可怜国也。欲居是国。故随太神教。其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照太神始自天降之処也。 一書曰。天皇以倭姫命為御杖。貢奉於天照太神。是以倭姫命以天照太神鎮坐於磯城厳橿之本而祠之。然後随神誨。取丁巳年冬十月甲子。遷于伊勢国渡遇宮。〔旧記云。内宮号者。内者宇犀郷本名。因称内宮。〕 謹按。是伊勢国内宮鎮坐之始也。蓋神者以天下為体。以黎元為本。天之覆而明。地之載而厚。人物之為人物。神皆体之不遺。移其霊於神鏡。以照皇統之化。垂其迹於渡遇。以存億世之敬。茅屋乎大廟。不鑿乎粢食。以示令徳。仰弥高。崇弥霊。朝廷既置内侍所。天子旦暮拝恭。不改往古之道矣。禁僧尼。絶梵釈。顕聖教之在人倫。県象著明。示其道之在知徳。其洋洋乎弥綸于四海。巍巍乎経緯于万物。是神之徳也。然乃明人倫日用之道。五典惟秩。三徳惟致。則当猶視吾之。神勅豈夫空乎。〔以上内宮鎮坐〕
書き下し
一書に曰はく、崇神帝六年乙丑秋九月、倭国笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照太神及び草薙剣を奉遷し、皇女豊鍬入姫をして奉斎せしむ。更に斎部氏をして石凝姥の神の裔、天目一神の裔の二氏を率ゐ、更に鏡を鋳り剣を造りて、以て護御の璽と為さしむ。是れ今の践祚の日に献る所の神璽の鏡・剣なり。仍りて其の遷祭の夕、宮人皆参り、終夜宴楽す。歌ひて曰はく、「美夜比登能。於保与須我良爾。伊佐登保志。由伎能与呂志茂」と。〔今の俗歌に曰はく、「美夜比止乃。於保与曽許侶茂。比佐止保志。由伎乃与保志茂。於保与曽許侶茂」と。詞の転ずるなり。〕 謹按。是れ別に神籬を建つるの始めなり。神籬は乃ち神社の義にして、宗廟の制なり。〔以上、天地宗廟を祭祀す〕 七年冬十一月、別に八十万神を祭る。仍りて天社・国社及び神地・神戸を定む。 謹按。是れ群臣を祭るの始めなり。天社とは、社稷宗廟の名なり。国社とは、郡国の名山大川の由りて祭る所の神社なり。神地・神戸とは、神に事ふる祠官の祭祠を奉る田園なり。国家事有れば、則ち徧く群神に告げ、以て其の誠を致す。是れ礼の恒なり。〔以上、群神を祭る〕 垂仁帝二十五年春三月丁亥朔丙申、天照太神を豊耜姫命より離ち、倭姫命に託く。爰に倭姫命、大神を鎮め坐せまつる処を求めて、菟田の筱幡に詣る。〔筱は此に佐佐と云ふ〕更に還りて近江国に入り、東のかた美濃を廻りて伊勢国に到る。時に天照太神、倭姫命に誨へて曰はく、「是の神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。是の国に居らむと欲ふ」と。故に太神の教に隨ひて、其の祠を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮を五十鈴川の上に興つ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照太神の始めて天より降ります処なり。 一書に曰はく、天皇、倭姫命を以て御杖と為し、天照太神に貢奉す。是を以て倭姫命、天照太神を磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祠る。然して後に神の誨に隨ひて、丁巳の年の冬十月甲子を取りて、伊勢国の渡遇宮に遷す。〔旧記に云ふ、内宮の号は、内とは宇犀郷の本名なり。因りて内宮と称す。〕 謹按。是れ伊勢国内宮鎮座の始めなり。蓋し神とは天下を以て体と為し、黎元を以て本と為す。天の覆ふこと明らかに、地の載すること厚し。人物の人物たる所以は、神皆之を体して遺さず。其の霊を神鏡に移し、以て皇統の化を照らし、其の迹を渡遇に垂れ、以て億世の敬を存す。茅屋の大廟、粢食を鑿らざるは、以て令徳を示す。仰げば弥高く、崇むれば弥霊なり。朝廷既に内侍所を置き、天子旦暮に拝恭して、往古の道を改めず。僧尼を禁じ、梵釈を絶ち、聖教の人倫に在ることを顕す。懸象著明にして、其の道の知徳に在ることを示す。其の洋洋乎として四海に弥綸し、巍巍乎として万物に経緯するは、是れ神の徳なり。然れば乃ち人倫日用の道を明らかにし、五典惟れ秩し、三徳惟れ致さば、則ち当に猶ほ吾を視るがごとくすべし。神勅は豈に空しからむや。〔以上、内宮鎮座〕
現代語訳
一書にいう。崇神帝の六年乙丑の秋九月、大和国の笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照太神と草薙剣を遷し奉り、皇女の豊鍬入姫に奉斎させた。さらに斎部氏に、石凝姥の神の子孫と天目一神の子孫の二氏を率いさせ、新たに鏡を鋳て剣を造らせ、護御の璽とした。これが今、即位の日に献上される神璽の鏡と剣である。その遷祭の夕べには、宮人がみな参り、夜通し宴楽した。そして歌った。「みやびとの おほよすがらに いさとほし ゆきのよろしも」。(今の俗歌では「みやびとの おほよそごろも ひさとほし ゆきのよほしも おほよそごろも」と歌う。言葉が転じたものである。) 素行はこう考える。これは別に神籬を建てた始めである。神籬は神社の義であり、宗廟の制である。(以上、天地と宗廟を祭祀する。) 七年冬十一月、別に八十万の神を祭った。そして天社・国社と、神地・神戸を定めた。 素行はこう考える。これは群臣(諸神)を祭る始めである。天社とは社稷や宗廟の名である。国社とは、郡国の名山大川に由来して祭られる神社である。神地・神戸とは、神に仕える祠官が祭祀を奉るための田園である。国家に事があれば、広く諸神に告げて誠を尽くす。これは礼の常である。(以上、諸神を祭る。) 垂仁帝の二十五年春三月の丁亥朔の丙申の日、天照太神を豊耜姫命から離し、倭姫命に託した。そこで倭姫命は、大神を鎮座させる場所を求めて、菟田の筱幡に詣でた。(筱は古語でささという。)さらに戻って近江国に入り、東へ美濃を巡って伊勢国に到った。そのとき天照太神は倭姫命に教えて言った。「この神風の伊勢国は、常世の浪が重なり寄せる国である。傍らの国の、よい国である。この国に居たいと思う。」そこで太神の教えに従い、その祠を伊勢国に立てた。そして斎宮を五十鈴川のほとりに興した。これを磯宮という。ここが天照太神がはじめて天から降った所である。 一書にいう。天皇は倭姫命を御杖として天照太神に差し出した。そこで倭姫命は、天照太神を磯城の厳橿の本に鎮座させて祠った。その後、神の教えに従って、丁巳の年の冬十月の甲子の日を選び、伊勢国の渡遇宮に遷した。(旧記にいう。内宮の呼び名の内とは、宇犀郷の元の名である。それで内宮と称する。) 素行はこう考える。これは伊勢国の内宮が鎮座した始めである。神とは天下を体とし、民を本とする。天は覆って明るく、地は載せて厚い。人や物が人や物であるゆえんを、神はみな体して漏らさない。その霊を神鏡に移して皇統の化を照らし、その跡を渡遇に垂れて、億世の敬を保つ。茅ぶきの大廟、精米しない粢の供え物は、美徳を示す。仰げばますます高く、崇めればますます霊験がある。朝廷はすでに内侍所を置き、天子は朝夕に拝して、昔の道を改めない。僧尼を禁じ、仏教を絶ち、聖教が人の道にあることを顕す。天に懸かる象は明らかで、その道が知と徳にあることを示す。その盛んで広いことは四海に行き渡り、高く大きいことは万物を貫く。これが神の徳である。とすれば、人の道と日々の暮らしの道を明らかにし、五典を秩序立て、三徳を尽くすならば、神の勅のとおり、神鏡を見て私を見るようにすべきである。神の勅はどうして空しかろうか。(以上、内宮鎮座)
解説

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『中朝事実』祭祀章・鳥見山の郊祀と崇神天皇の憂い神武帝四年春二月壬戌朔甲申、詔して曰はく、「我が皇祖の霊や、天より降り鑒て、朕が躬を光し助けたまふ。今諸の虜已に平ぎ、海内事無し。以て天神を郊祀し、用て大孝を申ぶべし」と。乃ち霊畤を鳥見山の中に立つ。其の地を号けて上小野榛原・下小野榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭りたまふ。 一書に曰はく、神武天皇、皇天二祖の詔に従ひ、神籬を建樹したまふ。所謂高皇産霊・神産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神なり。〔已上、今御巫の奉斎する所〕櫛磐間戸神・豊磐間戸神。〔已上、今御門巫の奉斎する所〕生島。〔是れ大八洲の霊なり。今生島巫の奉斎する所〕坐摩。〔是れ大宮地の霊なり。今坐摩巫の奉斎する所〕日臣命は来目部を帥ゐて、宮門を衛護し、其の開闔を司る。饒速日命は内物部を帥ゐて、矛盾を造り備ふ。其の物既に備はる。天富命は諸の斎部を率ゐて、天璽の鏡・剣を捧げ持ち、正殿に奉安し、并せて瓊玉を懸け、其の幣物を陳ぶ。殿祭の祝詞あり。次に宮門を祭る。然して後に、物部乃ち矛盾を立て、大伴・来目、杖を建てて門を開き、四方の国に朝せしめ、以て天位の貴きを観しむ。此の時に当たり、帝と神と、其の際未だ遠からず、殿を同じくし床を共にすること、此を以て常と為す。故に神物・官物も亦未だ分明ならず。宮内に蔵を立て、斎蔵と号す。斎部氏をして永く其の職に任ぜしむ。又天富命をして諸の氏を率ゐ供作らしめ、大幣を造作ること訖りて、天種子〔天児屋命の孫〕をして天罪・国罪を解除ふる事を為さしむ。所謂天罪は上に既に設け訖る。国罪は国中の人民の犯す所の罪なり。爾して乃ち霊畤を鳥見山の中に立つ。天富命、幣を陳べて祝詞し、皇天を礼祀し、群望に徧く秩して、以て神祇の思に答ふ。是を以て中臣・斎部の二氏、倶に祠祀の職を掌り、猨女君氏は神楽の事を供ふ。自余の諸氏、各々其の職有り。 謹按。是れ社稷宗廟を祭祀するの始めなり。中州既に平らぎ、先づ社稷宗廟を建て、以て天地鬼神の霊を萃め、其の本に報い其の遠きを追ふ。其の礼の尽くせること然り。夫れ人君は神より出で、又神人の主たり。人民社稷の寄有り。故に郊畤以て天地に事へ、宗廟以て鬼神を祭る。大臣其の礼を司り、重臣其の事を相く。至誠の道、此の如し。此を以て天下に臨めば、則ち人人豈に親を遺れ君を後にして薄瀉する者有らむや。帝、天下を制するに、先づ此に及ぶ。其の聖徳の厚きこと至れるかな。 崇神帝六年、百姓流離し、或いは背叛有り。其の勢ひ徳を以て治め難し。是を以て晨に興き夕に惕れ、罪を神祇に請ひたまふ。是より先、天照太神・倭大国魂の二神、並びに天皇の大殿の内に祭る。然れども其の神の勢ひを畏れ、共に住みたまふこと安からず。故に天照太神を豊鍬入姫命に託け、倭の笠縫邑に祭らしむ。仍りて磯堅城の神籬を立つ。〔神籬は此に比莽呂岐と云ふ〕亦日本大国魂神を渟名城入姫命に託けて祭らしむ。然るに渟名城入姫、髪落ち体痩せて祭ること能はず。
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『中朝事実』祭祀章・神衣と宗廟・祭祀の始まり天照太神、方に神衣を織りたまふ。斎服殿に居ます。 謹按。是れ天神を祭祀するの義なり。祭祀の説無しと雖も、既に神衣と曰ひ、既に斎服殿と曰へば、則ち神自ら之を織りて、以て神明に供ふるなり。大神の霊、親ら其の機巧を営み、天神に事へたまふ。其の至誠は竊かに按ずべきなり。朝廷終に神衣祭有り。参河の赤引の神調糸を以て、神衣を織り作り、以て伊勢太神宮に供ふ。〔此れ神服部等なり〕是れ乃ち往古の至誠を以て神に事へし遺則なり。〔孟夏・季秋に神衣祭有り。伊勢神宮の祭を謂ふなり。斎戒潔清して織り成すなり。或ひと疑ふ、神書に謂ふ所の神衣とは、大神の親服ならむかと。愚謂へらく、自ら服するを豈に神衣と曰はむや。令義解に云ふ、以て神明に供ふるなりと。神衣と曰ふは、是れ神の織りて天神に供ふる服なり。故に素戔嗚尊の悪は最も悪むべきなり。以上、天神を祭る。〕 高皇産霊尊、因りて勅して曰はく、「吾は則ち天津神籬及び天津磐境を起こし樹てて、当に吾が孫の為に奉斎せむ。汝天児屋命・太玉命、宜しく天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦吾が孫の為に奉斎すべし」と。乃ち二神をして天忍穂耳尊に陪従して以て降らしむ。是の時、天照太神、手に宝鏡を持ちて、天忍穂耳尊に授けて、祝ひて曰はく、「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に猶ほ吾を見るがごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にして、以て斎鏡と為したまへ」と。復た天児屋命・太玉命に勅したまはく、「惟れ爾二神も亦同に殿の内に侍ひて、善く防護を為せ」と。又勅して曰はく、「吾が高天原に御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし」と。 謹按。是れ宗廟を建てて祖考を祭祀するの礼なり。神籬は乃ち宗廟なり。宝鏡は乃ち宗廟の主なり。故に斎鏡と曰ふ。夫れ天祖の霊は物に体して遺さず。然れども宗廟の設け、神主の寄る無ければ、汎として一に定むべからず。故に宗廟以て之を萃め、神主以て之を寄す。而る後に神人の霊気相集まり、至誠通ずべく、斎戒致すべし。是れ天祖因りて勅して神籬を起こし樹てて、以て斎鏡と為したまふなり。夫れ天子は天地を以て父母と為す。故に天神地祇を祭祀して以て其の本に報い、宗廟を建立して以て其の始めを貴ぶは、人君の大礼なり。況んや中国の生成は、直に天神地祇に在るをや。〔令に曰はく、凡そ天皇即位したまはば、総べて天神地祇を祭る。散斎一月、致斎三日。義解に云ふ、天神とは、伊勢・山城の鴨・住吉・出雲国造の斎く神等の類是れなり。地祇とは、大神・大倭・葛木の鴨・出雲の大汝神等の類是れなり。皆常典に依りて之を祭ると。〕蓋し人は未だ嘗て其の父祖を思ふこと無くんばあらず。既に其の父祖を念ふこと有れば、則ち未だ嘗て由りて出づる所を念ふこと無くんばあらず。故に遠くは乃ち其の本始を思ひ、近くは乃ち其の父祖を慕ひて、祭祀の礼起こる。況んや本始に大功有り、父祖に大教有るをや。既に祭祀の礼有れば、則ち其の道、之を致さざるべからず。祭に必ず時有り、祭に必ず地有り、祭に必ず祠部有り、祭に必ず器用奉物有り、祭に必ず斎戒有り、祭に必ず其の事有り。以て其の礼を紀し、以て其の誠を尽くす。是れ祭祀の道なり。祭祀其の礼を致さざれば、則ち神は享くべからず。礼儀誠を以てせざれば、則ち神は格るべからず。礼致り誠至りて、而る後に祭祀の実を得べし。凡そ人の誠は祭祀より大なるは莫し。祭祀の大なるは天地に如くは莫し。万物の生成は天地に帰し、子孫の綿続は祖宗に帰す。是れ天地祖宗の其の本を一にする所以なり。蓋し人は万物の長なり。人君は億兆の長たり。人君、天地を祭祀して、万類の散気をして咸く天に帰せしめ、本に報い始めに反り、親ら其の至誠を尽くすこと、祭祀より大なるは莫きなり。斎とは何ぞ。其の斉しからざるを斉しくするの謂なり。祭祀の議は、斎戒を以て交はるべし。故に天神詳らかに其の礼を勅したまふなり。〔以上、宗廟祭祀の義〕
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『中朝事実』祭祀章・外宮と八幡・鎮座の始め雄略帝二十一年丁巳冬十月、伊勢皇太神、大倭姫に教へて、豊受大神を丹波国与佐の真井原より迎へしむ。大倭姫、之を奏す。明年戊午秋九月、勅使を差して奉迎す。九月、度会郡山田原の新宮に鎮坐す。 一書に曰はく、外宮とは、伝へ言ふ、天祖天御中主神なり。皇太神託宣したまはく、先づ此の神を祭れ、先づ此の神を拝せよと。且つ皇孫瓊瓊杵尊、此の宮に在りて相殿す。故に天児屋根命・太玉命も亦同に在す。因りて号けて二所大神宮と曰ふ。 謹按。是れ外宮遷坐の始めなり。〔以上、外宮遷坐〕 欽明天皇三十一年冬、肥後国菱形池の辺の民家の児、市三歳。神託して曰はく、「我は是れ人皇第十六代、誉田八幡麻呂なり。諸州に神明に垂跡す。今又此に顕る」と。其の後、勅使を差して、移して豊前国の宇佐宮に鎮坐せしむ。〔誉田は本名なり。八幡は後に自ら称する所なり。〕 謹按。是れ八幡鎮座の始めなり。蓋し外宮・八幡は共に後世の崇敬する所なり。朝廷、神宮を立てて以て旦暮の敬を致すは、唯だ内侍所に在り。是れ往古の神勅に因るなり。蓋し天祖は乃ち宗廟なり、天地なり。聖主、内には内侍所の設けを厳かにし、外には内宮の鎮座を仰ぎ、以て社稷宗廟を崇尊す。其の余は群祀の列に在り。〔以上、八幡鎮座〕 以上、祭祀の誠を論ず。 謹按。延喜式に載する所、中朝の大小の神社、三千一百三十二座。其の外、石清水・吉田・祇園・北野は、式外の神と号す。後朱雀帝の長暦三年秋八月、二十二社の式を定む。毎歳、神祇官に勅して、以て幣帛を奉り、年穀を祈らしむ。伊勢太神宮・八幡宮は、之を宗廟と謂ふ。賀茂・松尾・平野・春日・吉田・大和・龍田等は、之を社稷と謂ふ。又祖神の祠は、之を苗裔と謂ふ。蓋し祭祀の礼には、郊に天地を祀る有り、宗廟に饗祀する有り、国家の常祀有り、内外の群祀有り。而して祭祀の道には、祭告有り、祈禱有り、斎戒の敬有り、奉幣の物有り、神官有り、神地有り、神戸有り。夫れ礼は祭より大なるは莫し。祭祀の道、至誠に非ざれば、則ち之を致すべからず。至誠の格るも、其の道を以てせざれば、則ち得べからず。凡そ天子より以て庶人に至るまで、祭祀必ず分有り。人君は天下の為に福を求め功に報ゆ。天下の鬼神、悉く之を御す。故に大には天地を祭祀し、親ら宗廟を饗し、小には徧く群神に告げ、疎くは群霊に及ぶ。