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神皇正統記 / 巻二 第十二代 景行天皇

第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏こと〴〵く平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」

書き下し

第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏ことごとく平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」

現代語訳

第十二代、景行天皇は垂仁天皇の第三の子。御母は日葉州媛で、丹波道主王の娘である。辛未の年に即位。大和の纏向の日代の宮においでになる。十二年の秋、熊襲が背いて貢ぎ物を奉らなかった。八月に天皇は筑紫に行幸してこれを征伐された。十三年の夏、ことごとく平らいだ。高屋の宮においでになった。十九年の秋、筑紫から還られた。二十七年の秋、熊襲がまた背いて辺境を侵した。皇子の小碓尊は御年十六、幼いときから雄々しい気性を持ち、容貌は魁偉で、身の丈は一丈、力は鼎を持ち上げるほどであったので、熊襲を討たせられた。冬十月にひそかにかの国に至り、奇策をもって梟帥の取石鹿父という者を殺された。梟帥は褒め申しあげて、日本武と名づけ申した。ことごとく残党を平らげて帰られた。所々で多くの悪神を殺した。二十八年の春、復命された。天皇はその功を褒めて、ほかの皇子たちとは比べものにならないほど厚く恵まれた。四十年の夏、東夷が多く背いて辺境が騒がしかったので、また日本武皇子を遣わした。吉備武彦・大伴武日を左右の将軍として添えられた。十月に道を曲げて伊勢の神宮に参り、倭姫命に暇乞いを申された。かの命は神剣を授けて、「慎め、怠るな」

解説

日本武尊の物語の始まりである。十六歳の小碓尊は奇策で熊襲の首領を討ち、死にゆく敵から「日本武」の名を贈られる。自分の名を、倒した相手から称えられて得るのである。天皇はその功を他の皇子とは比べものにならないほど厚く賞したが、帰ってまもなく、今度は東国の平定に送り出す。古事記はこのとき日本武尊が父に疎まれていると嘆いたと伝えるが、親房はその嘆きを記さず、日本書紀に沿って功績と信任の物語として書いている。何を書かないかによって、親房はこの父子の関係を、互いを信じた君と臣の姿として示しているのである。出発の前、日本武尊は道を曲げて伊勢に参り、叔母の倭姫命から神剣と「慎め、怠るな」という言葉を授かる。力のある者に、力を与えると同時に戒めも与える。この二つを同時に渡すことが、送り出す側の務めである。

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