神皇正統記 / 巻二 第十代 崇神天皇
第十代、崇神天皇は開化第二の子。御母伊香色謎姫、太綜麻杵の命の女也。甲申の歳即位。大和の磯城の瑞籬の宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百余になりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年己丑年神代の鏡造の石凝姥の神のはつこをめして鏡をうつし鋳せしめ、天目一箇の神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀の郡にして、此両種をうつしあらためられて、護身の璽として同殿に安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女豊鋤入姫の命につけて、大和の笠縫の邑と云所に神籬をたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居各別になれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴て所々をめぐり給けり。十年の秋、大彦命を北陸に遣し、武渟川別の命を東海に、吉備津彦命を西道に、丹波の道主の命を丹波に遣す。ともに印綬を給て将軍とす。天皇の叔父武埴安彦の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を止て、まづ追討しつ。冬十月に将軍発路す。十一年の夏、四道の将軍戎夷を平ぬるよし復命す。六十五年秋任那の国、使をさして御つきをたてまつる。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おまし〳〵き。
書き下し
第十代、崇神天皇は開化第二の子。御母伊香色謎姫、太綜麻杵の命の女也。甲申の歳即位。大和の磯城の瑞籬の宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百余になりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年己丑年神代の鏡造の石凝姥の神のはつこをめして鏡をうつし鋳せしめ、天目一箇の神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀の郡にして、此両種をうつしあらためられて、護身の璽として同殿に安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女豊鋤入姫の命につけて、大和の笠縫の邑と云所に神籬をたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居各別になれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴て所々をめぐり給けり。十年の秋、大彦命を北陸に遣し、武渟川別の命を東海に、吉備津彦命を西道に、丹波の道主の命を丹波に遣す。ともに印綬を給て将軍とす。天皇の叔父武埴安彦の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を止て、まづ追討しつ。冬十月に将軍発路す。十一年の夏、四道の将軍戎夷を平ぬるよし復命す。六十五年秋任那の国、使をさして御つきをたてまつる。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おましましき。
現代語訳
第十代、崇神天皇は開化天皇の第二の子。御母は伊香色謎姫で、太綜麻杵命の娘である。甲申の年に即位。大和の磯城の瑞籬の宮においでになる。この御時、神代を去ること、世は十代を継ぎ、年は六百余年になった。しだいに神威を畏れられて、即位六年己丑の年、神代に鏡を造った石凝姥神の子孫を召して鏡を写し鋳させ、天目一箇神の子孫に剣を造らせた。大和の宇陀郡で、この二種を写し改められて、護身の璽として同じ殿に安置した。神代からの宝鏡および霊剣は、皇女豊鋤入姫命に託して、大和の笠縫の邑という所に神籬を立ててあがめ申しあげられた。これより神宮と皇居が別々になった。その後、大神のお教えがあって、豊鋤入姫命は神体を頂いて所々をめぐられた。十年の秋、大彦命を北陸に遣わし、武渟川別命を東海に、吉備津彦命を西道に、丹波道主命を丹波に遣わす。ともに印綬を与えて将軍とした。天皇の叔父の武埴安彦命が朝廷を傾けようと企てたので、将軍らを止めて、まず追討した。冬十月に将軍たちが出発した。十一年の夏、四道将軍は戎夷を平らげたことを復命した。六十五年の秋、任那の国が使者を遣わして貢ぎ物を献上した。天皇が天下を治められたことは六十八年。百二十歳でいらっしゃった。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院其比ほひは昼の御坐の御剣を宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告にて神剣をたてまつらせ給しによりて近比までの御まぼりなりき。 三種の神器の事は所々に申侍しかども、先内侍所は神鏡也。八咫の鏡と申。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳年中に火事にあひ給。それまでは円規かけましまさず。後朱雀の御時、長久年中にかさねて火ありしに、灰燼の中より光をさゝせ給けるを、をさめてあがめ奉られける。されど正体はつゝがなくて万代の宗廟にまします。宝剣も正体は天の叢雲の剣と申は、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし剣也。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅国より道行と云法師、来てぬすみたてまつりしかど、神変をあらはして我国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。
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『神皇正統記』巻二 第一代 神武天皇其光てりかゞやけり。これによりて皇軍大にかちぬ。宇麻志間見の命其舅のひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。その軍をひきゐてしたがひ申にけり。天皇はなはだほめましまして、天よりくだれる神剣をさづけ、「其大勲にこたふ。」とぞのたまはせける。此剣を豊布都の神と号す。はじめは大和の石上にましましき。後には常陸の鹿嶋の神宮にまします。彼宇麻志間見の命又饒速日の尊天降し時、外祖高皇産霊の尊さづけ給し十種の瑞宝を伝へもたりけるを天皇に奉る。天皇鎮魂の瑞宝也しかば、其祭を始られにき。此宝をも即宇麻志間見にあづけ給て、大和石上に安置す。又は布瑠と号。此瑞宝を一づゝよびて、呪文をして、ふる事あるによれるなるべし。かくて天下たひらぎにしかば、大和国橿原に都をさだめて、宮つくりす。其制度天上の儀のごとし。天照太神より伝給へる三種の神器を大殿に安置し、床を同くしまします。皇宮・神宮一なりしかば、国々の御つき物をも斎蔵にをさめて官物・神物のわきだめなかりき。
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『神皇正統記』巻二 第十一代 垂仁天皇第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母御間城姫、大彦の命女也。壬辰の年即位。大和の巻向の珠城の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳冬十月甲子に伊勢国度会郡五十鈴川上に宮所をしめ、高天の原に千木高知下都磐根に大宮柱広敷立てしづまりましましぬ。此所は昔天孫あまくだり給し時、猨田彦の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭姫の命、宮所を尋給しに、大田の命と云人まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の猨田彦の神の苗裔なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の図形などあり。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣の祖大鹿嶋の命を祭主とす。又大幡主と云人を太神主になし給。これより皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おましましき。
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『古語拾遺』同殿不安磯城瑞垣朝に至りて、漸く神威を畏れ、殿を同じくするに安んぜず。故に更に斎部をして石凝姥神の裔、天目一筒神の裔の二氏を率い、更に鏡を鋳、剣を造らしめ、以て護身の御璽と為す。是れ今、践祚の日に献ずる所の神璽の鏡・剣なり。
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『神皇正統記』巻二 第十二代 景行天皇第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏ことごとく平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」
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『古語拾遺』笠縫邑と五十鈴川仍りて倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立て、天照大神及び草薙剣を遷し奉り、皇女豊鍬入姫命をして斎い奉らしむ。其の遷し祭る夕、宮人皆参りて、終夜宴楽す。歌いて曰く、「美夜比登能(みやひとの)、於保与須我良爾(おほよすがらに)、伊佐登保志(いさとほし)、由伎能与呂志茂(ゆきのよろしも)、於保与須我良爾(おほよすがらに)」と。又六年、八十万の群神を祭り、仍りて天社・国社及び神地・神戸を定む。始めて男の弭の調、女の手末の調を貢らしむ。今、神祇の祭に熊の皮・鹿の皮・角・布等を用うるは、此の縁なり。巻向玉城朝に洎びて、皇女倭姫命をして天照大神を斎い奉らしむ。仍りて神の教えに随いて、其の祠を伊勢国の五十鈴の川上に立て、因りて斎宮を興して倭姫命をして居らしむ。始め天上に在りて、預め幽契を結ぶ。衢神先に降る、深く以有るかな。此の御世、始めて弓矢・刀を以て神祇を祭り、更に神地・神戸を定む。又新羅の王子海檜槍来帰す。今但馬国出石郡に在りて大社と為るなり。纏向日代朝に至りて、
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