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人物志 / 釋爭

為惑繆豈不甚哉?然原其所由,豈有躬自厚責以致變訟者乎?皆由內恕不足,外望不已:或怨彼輕我,或疾彼勝己。夫我薄而彼輕之,則由我曲而彼直也;我賢而彼不知,則見輕非我咎也。

新字:為惑繆豈不甚哉?然原其所由,豈有躬自厚責以致変訟者乎?皆由内恕不足,外望不已:或怨彼軽我,或疾彼勝己。夫我薄而彼軽之,則由我曲而彼直也;我賢而彼不知,則見軽非我咎也。

書き下し

惑繆為ること豈に甚だしからずや。然れども其の由る所を原ぬるに、豈に躬自ら厚く責めて以て変訟を致す者有らんや。皆内恕足らずして、外望已まざるに由る。或いは彼の我を軽んずるを怨み、或いは彼の己に勝るを疾む。夫れ我薄くして彼之を軽んずるは、則ち我曲にして彼直なるに由るなり。我賢にして彼知らざるは、則ち軽んぜらるるも我が咎に非ざるなり。

現代語訳

(争いは)惑いと誤りとして、なんと甚だしいことではないか。しかしその由来を突き詰めてみると、自分自身を厚く責めた結果として争いや訴えを引き起こした者など、どこにいようか。すべては、内に自分を省みて人を思いやる心が足りず、外に人への期待や不満がやまないことに由来する。相手が自分を軽んじることを怨んだり、相手が自分より勝っていることを憎んだりする。そもそも自分が薄っぺらで相手がそれを軽んじるのなら、それは自分が曲がっていて相手がまっすぐだからである。自分が賢いのに相手がそれを知らないのなら、軽んじられても自分の落ち度ではない。

解説

「釈争」で、争いの原因を内面に求める一節である。争いは惑いと誤りの極みだが、自分を厳しく責めた結果として争いになった者はいない。争いはすべて、自分を省みる心が足りず、他人への不満がやまないところから生まれる、と劉劭は言う。そして、相手に軽んじられたとき、自分に至らない点があるなら相手が正しく、自分が賢いのに知られないなら恥じることはない、と二つの場合に分けて考える。この後さらに、相手が賢くて先にいるなら自分の徳が足りず、徳が等しいのに先を越されたなら自分はすぐ次にいるのだ、と続く。どの場合にも怨む理由はないというのである。人に軽く扱われて腹が立ったとき、怒る前にこの場合分けを試してみると、心の持ちようが変わる。

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