自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・理想の実行は位地の有無に関係せぬ(1)
近時理想ということが一つの流行語になり、成功はいうにおよばず失敗をも理想に帰する傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退いて、これは自分の理想を実行するのか否かと考えたいと思う。たとえば愛国の理想を描くならば、戦争のとき、馬背にまたがって功名手柄をするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を遂げるみちはある。 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として嘉すべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。 教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく糺してみると、真に教育のためにつくしたい志よりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育云々というのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大廈に住いすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の馬丁になるのがこの人の理想にかなっている。 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと煎じつめると、実業家は美服を着け茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇間でも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と高尚らしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとか叩くとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛倒し、下に肉月がついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨いものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて下女下男の教育もできる。また自分の女房子女を教育することもできる。
書き下し
近時理想ということが一つの流行語になり、成功はいうにおよばず失敗をも理想に帰する傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退いて、これは自分の理想を実行するのか否かと考えたいと思う。たとえば愛国の理想を描くならば、戦争のとき、馬背にまたがって功名手柄をするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を遂げるみちはある。 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として嘉すべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。 教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく糺してみると、真に教育のためにつくしたい志よりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育云々というのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大廈に住いすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の馬丁になるのがこの人の理想にかなっている。 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと煎じつめると、実業家は美服を着け茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇間でも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と高尚らしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとか叩くとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛倒し、下に肉月がついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨いものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて下女下男の教育もできる。また自分の女房子女を教育することもできる。
現代語訳
最近は理想という言葉が一つの流行語になり、成功はもちろん、失敗さえも理想のせいにする傾向があります。この言葉にだまされず、間違いなく翻訳するための一つの方法として、私は、どんな小さなことにあたっても、何かをするときは、ちょっと退いて、これは自分の理想を実行するのかどうかと考えたいと思います。たとえば愛国の理想を描くなら、戦争のとき、馬にまたがって手柄を立てることが、ただちに理想とは言いがたい。なぜなら、馬に乗らなくても、戦線に立たなくても、愛国の行為を遂げる道はあるからです。 また日本の政治を改善したいと思うところまでは、理想として感心なことですが、これを行うには大臣にならなければならないということはありません。理想を実現するためにある地位をむさぼるのは、まだ真の理想とは思えません。 教育者は教育を自分の理想とします。ところが、この理想は文部大臣にならなければ実現できないという人をよく問いただしてみると、本当に教育のために尽くしたい志よりも、ほかに望みがあるのが多いのです。だんだんその言うところを聞くと、教育云々というのは第三次の考えで、大臣になりたいというのは第二次の考えで、第一次の根本の考えは、馬車に乗り大きな屋敷に住むことが理想なのです。つまりそれなら、馬車会社の馬丁になるのがこの人の理想にかなっています。 あるいは実業家になりたいというのは、どこから起こった考えかと突き詰めると、実業家は立派な服を着て茶屋へ行ってどんちゃん騒ぎをするものだ、というところにあります。それならこの望みも、実業家でなく、幇間でも俳優でもできることです。とかく理想理想と高尚らしく言いますが、とんでもないところから割り出している者が多いものです。 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になったり文部省の役人になったりする必要はありません。また県の教育課長や視学官になる必要もありません。本当に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいです。「教」という字は、なぐる、叩くということを含んでいるようですが、「育」という字は、「子」の字を逆さにして、下に肉月がついています。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨いものとされています――向こうを向いているものを引き寄せる意です。教育することが本当に私たちの理想であるなら、必ずしも役人になる必要はありません。家にいて、下女下男の教育もできます。また自分の妻や子供を教育することもできます。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(1)しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
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『正法眼蔵随聞記』巻三一日示して云く、宋土の海門禅師、天童の長老たりし時、会下に元首座と云僧ありき、この人は得法悟道の人にて、行持長老にも超たり、有時夜る方丈に参じて、焼香礼拝して云く、請すらくは某甲に後堂首座を許せと、時に禅師流涕して云く、我れ小僧たりし時より、未た此の如きの事を聞かず、汝坐禅僧として首座長老を所望すること大ひなる錯なり、なんぢ既に悟道せること我れにも越いたり、然あるに首座を望むこと是れ昇進の為か、許すことは前堂をも乃至長老をも許すべし、その心操卑劣なり、誠に是を以て余の未悟の僧は推察せられたり、仏法の衰微せること是を以て知ぬべしと云ふて、流涕悲泣す、
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『呻吟語』内篇・修身・身は嚴重、意は安定身は嚴重ならんことを要し、意は安定ならんことを要し、色は溫雅ならんことを要し、氣は和平ならんことを要し、語は簡切ならんことを要し、心は慈祥ならんことを要し、志は果毅ならんことを要し、機は縝密ならんことを要す。
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論語・泰伯篇孔子曰わく、大なるかな堯の君たるや!巍巍(ぎぎ)たり。唯天のみ大なり、唯堯これに則る。蕩蕩(とうとう)たり。民能く名づくること無し。巍巍たり。その成功有り。煥(かん)たり、その文章有り。
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『論語と算盤』理想と迷信・道理ある希望を持て戦争して負けては困るが、ただ国力を挙げて戦争にのみ奔るということは王道に適するものではない。今日の時局に対して我々はそのような事まで心配せぬでもよい訳であるが、これから先の商工業はいかにしたらよかろうか、平和が克復したらその後の実業界はいかになるかというような事については、意想外なる変化を生じて、中には悪いと思ったことが善くなり、善いと思うたことが悪くもなろうから、今日から臆断は出来ない。しかし人は未来の事に向かってぜひとも理想は持つべきものであるから、たとい違却するとも一定の主義によって行うというようなことが無ければならぬ。つまりよく思いつまびらかに考えて事に当たれば、必ず過ちは少ないものである。戦争のごとき事変の勃発には、かつて想像したものに違却を生ずることはあるが。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想を行為に翻訳するが人生理想は何人でも、活きている者は必ずもっている。またこれがその生命である。耶蘇教で教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。 人はなんで活きているかというに、理想で活きている。ただ呼吸するだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握飯でも麦飯でもよいけれども、この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。 理想という原語を行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。