自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(1)
しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
書き下し
しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
現代語訳
それなのに私たちは、ややもすれば、理想という文字のもとに野心を包みます。あるいは月給をもっと取りたい、人に褒められたい、威張りたいというような望みを包みます。そのため、いわゆる理想の奥をだんだん探ると、ひどく卑しい野卑な動機にたどり着くことがしばしばあります。自分の欲望の汚れを覆い隠すために、理想という文字を使う者がたくさんいます。要するに、理想の実現は地位によるものではなく、心の底まで理想が行き渡っていれば、何事にあたっても実現すると思います。一杯の茶を飲もうが、一言話をしようが、そのなかに理想が実現されます。 人と付き合うと、あの人は茶を飲むにも余裕がありそうだ、という人がいます。たとえ茶を飲まなくても、その人のそばに行くと心地よいことがあります。西郷隆盛のそばにいると心地よく、翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は、近づくと襟を正さねばならないほど威厳がありました。威厳はあるが、なんとなく引きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても、馴れ馴れしくして失礼することはできない、というふうでした。これは全く、翁の心が外に現れていたからです。理想もまたこのようでなければなりません。
解説

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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(2)理想があれば手なり足なりに現れる。かの椅子に坐らなければ理想が行われぬというは、下手な職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。泥棒するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。盗む気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。 聖書に「人を憎むは人を殺すなり」という意味が書いてある。人を憎むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼奴は嫌な奴だ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければ拾うということは遠くとも従兄弟同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の誘惑に陥らんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険を脱したということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、卑近な小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。
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