自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・理想は早晩実現せられる
あるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。 理想という以上は、合理的にして、分度ある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、吾人の在世中実現のできるものであると思う。この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量で測るものでなく、品質で測るものではなかろうか。たとえば花を見たいと思うと、菊でも桔梗でも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。あるいはそれは違う、桔梗の花を見たいのでなく、花を見たいのである。花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。それがすなわち分量と品質の違うところである。 僕はつねに思う、一枝の花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。昔から天女を見ると、羽衣を着て自由自在に空中を飛び歩いている。おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。すなわち羽根が交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの意匠には羽根をつけている。しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。 これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、神や仏に祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが早晩達せられると僕は確信する。なかには金が欲しく天から小判の降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。それは理想でなく、欲想である。実現せられぬのは理想でなく空想である。
書き下し
あるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。 理想という以上は、合理的にして、分度ある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、吾人の在世中実現のできるものであると思う。この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量で測るものでなく、品質で測るものではなかろうか。たとえば花を見たいと思うと、菊でも桔梗でも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。あるいはそれは違う、桔梗の花を見たいのでなく、花を見たいのである。花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。それがすなわち分量と品質の違うところである。 僕はつねに思う、一枝の花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。昔から天女を見ると、羽衣を着て自由自在に空中を飛び歩いている。おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。すなわち羽根が交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの意匠には羽根をつけている。しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。 これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、神や仏に祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが早晩達せられると僕は確信する。なかには金が欲しく天から小判の降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。それは理想でなく、欲想である。実現せられぬのは理想でなく空想である。
現代語訳
あるいは、理想とはこの世で実現できるような、そんな低いものではない、私の思想はもう一歩高く、とうていこの世では満足できない理想を持っている、と大きなことを言う人があります。しかしこれは理想ではなく、むしろ空想というものです。 理想という以上は、合理的で、節度のある欲望の要求のはずですから、少なくともその幾部分は、私たちが生きている間に実現できるものだと思います。この例が当たっているかどうかは分かりませんが、私たちの理想というものは、分量で測るものではなく、品質で測るものではないでしょうか。たとえば花を見たいと思うとき、菊でも桔梗でも、花を見れば、花を見たいという理想の一部を達したことになります。いや、それは違う、桔梗の花を見たいのではなく、花を見たいのである。花というからには何万という花がある、その花の全体を見たいのであって、一、二の花で満足するのではない、と言う人もいるかもしれません。それがすなわち、分量と品質の違うところです。 私はいつも思います。一枝の花の中に千種の花を見られない者は、花を語るに足りない、と。つまり、理想を論じる者は、一の中に千万の数を読むことが必要です。私たちが理想とするところは、いかに小さいにせよ、その全体を実現することはできなくても、いくらかは実現できます。昔から天女を見ると、羽衣を着て自由自在に空中を飛び歩いています。おそらく交通機関として考えれば、これほど便利なものはないでしょう。つまり、羽根が交通機関の理想のようになっていたので、日本でも西洋でも、自由自在に動くものの意匠には羽根をつけています。しかし、これは理想であって、できるものではないと言っていましたが、二十世紀になって飛行機ができました。飛行機は羽根で飛ぶのではありませんが、空中を飛び歩くという点では、長年の理想をほぼ実現したものと言って差し支えありません。 これと同じく、私たちの思うとおりの理想は行われないかもしれませんが、その一部分は必ず行われると思います。これは国家社会の理想だけでなく、個人においてもそうだと思います。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、神や仏に祈るなら、その祈願として合理的であれば、必ず早晩達せられると、私は確信します。なかには、金が欲しくて天から小判が降ってくることを理想とする人もありますが、それは実現されません。それは理想ではなく、欲想です。実現されないのは、理想ではなく空想です。
解説

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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想の実行は位地の有無に関係せぬ(1)近時理想ということが一つの流行語になり、成功はいうにおよばず失敗をも理想に帰する傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退いて、これは自分の理想を実行するのか否かと考えたいと思う。たとえば愛国の理想を描くならば、戦争のとき、馬背にまたがって功名手柄をするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を遂げるみちはある。 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として嘉すべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。 教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく糺してみると、真に教育のためにつくしたい志よりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育云々というのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大廈に住いすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の馬丁になるのがこの人の理想にかなっている。 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと煎じつめると、実業家は美服を着け茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇間でも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と高尚らしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとか叩くとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛倒し、下に肉月がついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨いものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて下女下男の教育もできる。また自分の女房子女を教育することもできる。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(1)しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・ここに焚く火の烟なりけり昔のある皇后の御歌に、 もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝに焚く火の烟なりけり われわれはとかく理想は遠い所にあり、唐土の山のかなたに立つ烟のごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に憧憬れているという青年男女などは、日々学課をそっち退けとし、月や星を眺め、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。 「ここに焚く火の烟なりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき塵界を去らねばならぬものでない。われわれは山へ引っ込むもよい、塵界を去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。理想は心の作用である、実際は身体の作用である。心と身体とは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。 実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。また真の理想なれば実際に行われぬものはない。いかに高き理想も実際に現すことができると信ずる。
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自警録・第二十三章 若返りの工夫・いつも若い人(1)目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き気象がなくなるのである。すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっとも尊ぶべき、高朗なる性情が消えるのである。「大人にしてなお赤児のごとし」という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の気概を失わずにあるを要する。「あの人は年とってもいつも若い気でいる」という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。かくのごとき人の心には余裕がある。すなわち生木のようなる弾力があって、世の変遷とともに進む能力を保留している。「老木は曲らぬ」とは邪道に迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。 およそ何事においても行きづまれるは見悪きものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで枯木に弾力なきに等しく実にみすぼらしい。また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。ところが誰でも少し油断すると小成に安んじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称し自ら安心する。これあるいは成功であるかも知れぬ。しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだ当を得ないことではなかろうか。欲心と理想とはちがう。欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(2)理想があれば手なり足なりに現れる。かの椅子に坐らなければ理想が行われぬというは、下手な職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。泥棒するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。盗む気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。 聖書に「人を憎むは人を殺すなり」という意味が書いてある。人を憎むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼奴は嫌な奴だ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければ拾うということは遠くとも従兄弟同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の誘惑に陥らんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険を脱したということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、卑近な小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・犬車の前に垂れ下げた肉片僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和辺あるいは東京でもときどき見る犬車というものがある。すなわち犬に曳かせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその肩骨の構造から考えても、車を曳くようにできておらぬが、とにかく方々で行われている。 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に曳かせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。擲っても叩いても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで悪戯の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれを食おうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。 われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。