自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(2)
理想があれば手なり足なりに現れる。かの椅子に坐らなければ理想が行われぬというは、下手な職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。泥棒するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。盗む気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。 聖書に「人を憎むは人を殺すなり」という意味が書いてある。人を憎むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼奴は嫌な奴だ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければ拾うということは遠くとも従兄弟同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の誘惑に陥らんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険を脱したということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、卑近な小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。
書き下し
理想があれば手なり足なりに現れる。かの椅子に坐らなければ理想が行われぬというは、下手な職人が道具をならべると同じである。こういう職人は道具の善悪をならべ立てるが、いずれを使っても仕事が下手なことはわれわれがつねに目撃している。ゆえに理想があるなら、つねにここが理想を実行するところだという考えをもてば、理想の実現せられぬところはない。泥棒するの罪悪なることは誰でも知っているが、人が見ていないところにものが落ちていると、十に七、八人までは持っていってもよいか知らという気が起きる。盗む気はなくとも欲しい気はある。両者は行為に現れたときは大いに接近している。 聖書に「人を憎むは人を殺すなり」という意味が書いてある。人を憎むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすい。彼奴は嫌な奴だ、早く死ねばよいということと、社会になんの制裁もなければ、一歩を進めてみずから手を下すということとははなはだ近接している。ものが欲しいというのと、見る人がなければ拾うということは遠くとも従兄弟同士ぐらいである。欲しがる人が拾わぬというは、世の中に制裁があるからである。 この場合にかねて承知の道心を起こしてここだなという考えをもてば、はじめて落ちた物を拾わないりっぱな人物が出てくる。あるいは拾ってもちぬしを探して、返すごとき人物となる。先年もある青年が婦人の誘惑に陥らんとしたとき、かねて聞いていたことは「ここだな」と思い、ついに危険を脱したということを手紙で通知してきた。青年はみな理想をもっているが、卑近な小さなことにまで翻訳して始めて理想の理想たるところが現れ、かつまた高くなり強くなるものである。これは少しでも実験ある人のみな感ずるところで、僕のように達しないものでも、これを適切に感じたことが二、三度ある。
現代語訳
理想があれば、手にも足にも現れます。あの、椅子に座らなければ理想が行えないというのは、下手な職人が道具を並べ立てるのと同じです。こういう職人は道具の良し悪しを並べ立てますが、どの道具を使っても仕事が下手なことは、私たちがいつも目にするところです。ですから理想があるなら、常にここが理想を実行するところだという考えを持てば、理想が実現されないところはありません。泥棒をするのが罪悪であることは誰でも知っていますが、人が見ていない所に物が落ちていると、十人のうち七、八人までは、持って行ってもよいだろうかという気が起こります。盗む気はなくても、欲しい気はある。両者は行為に現れたときには、非常に近いのです。 聖書には、「人を憎むのは人を殺すことである」という意味のことが書いてあります。人を憎むのは、機会があれば殺すという行為に現れやすいのです。あいつは嫌な奴だ、早く死ねばよいと思うことと、社会に何の制裁もなければ、一歩進んで自ら手を下すこととは、はなはだ近接しています。物が欲しいということと、見る人がなければ拾うということは、遠くても従兄弟同士くらいです。欲しがる人が拾わないのは、世の中に制裁があるからです。 この場合に、かねて承知している道心を起こして、ここだなという考えを持てば、はじめて落ちた物を拾わない立派な人物が出てきます。あるいは拾っても持ち主を探して返すような人物となります。先年もある青年が、女性の誘惑に陥ろうとしたとき、かねて聞いていたことを「ここだな」と思い、ついに危険を脱したと、手紙で知らせてきました。青年は皆理想を持っていますが、身近な小さなことにまで翻訳して初めて、理想の理想たるところが現れ、かつまた高く強くなるものです。これは少しでも経験のある人なら皆感じるところで、私のように達していない者でも、これを切実に感じたことが二、三度あります。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・ここに焚く火の烟なりけり昔のある皇后の御歌に、 もろこしの山のあなたに立つ雲はこゝに焚く火の烟なりけり われわれはとかく理想は遠い所にあり、唐土の山のかなたに立つ烟のごとく、ほとんどわれわれと没交渉のように心得、理想に憧憬れているという青年男女などは、日々学課をそっち退けとし、月や星を眺め、へたな歌をつくり理想を養うているというが、理想はそう遠いものでない。 「ここに焚く火の烟なりけり」で、日々やっていることのうちに理想が含まれてある。またこれを養うに遠方にゆき塵界を去らねばならぬものでない。われわれは山へ引っ込むもよい、塵界を去るもよいが、それが理想を養う必要条件では断じてない。理想は心の作用である、実際は身体の作用である。心と身体とは別であるがごとく、理想と実行とは別のごとくしてそうでない。われわれが一つの理想をもって世の中を渡ろうとするときには、その理想の中に身も入らなければならぬ。 実業家は店において、職工は工場において、学生は学校、家庭あるいは運動場において、女子はその台所において、いかなる位地にあっても、理想を実現することはできうる。また真の理想なれば実際に行われぬものはない。いかに高き理想も実際に現すことができると信ずる。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想を行為に翻訳するが人生理想は何人でも、活きている者は必ずもっている。またこれがその生命である。耶蘇教で教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。 人はなんで活きているかというに、理想で活きている。ただ呼吸するだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握飯でも麦飯でもよいけれども、この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。 理想という原語を行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。
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『論語と算盤』理想と迷信・道理ある希望を持て戦争して負けては困るが、ただ国力を挙げて戦争にのみ奔るということは王道に適するものではない。今日の時局に対して我々はそのような事まで心配せぬでもよい訳であるが、これから先の商工業はいかにしたらよかろうか、平和が克復したらその後の実業界はいかになるかというような事については、意想外なる変化を生じて、中には悪いと思ったことが善くなり、善いと思うたことが悪くもなろうから、今日から臆断は出来ない。しかし人は未来の事に向かってぜひとも理想は持つべきものであるから、たとい違却するとも一定の主義によって行うというようなことが無ければならぬ。つまりよく思いつまびらかに考えて事に当たれば、必ず過ちは少ないものである。戦争のごとき事変の勃発には、かつて想像したものに違却を生ずることはあるが。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(1)しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
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論語・泰伯篇孔子曰わく、大なるかな堯の君たるや!巍巍(ぎぎ)たり。唯天のみ大なり、唯堯これに則る。蕩蕩(とうとう)たり。民能く名づくること無し。巍巍たり。その成功有り。煥(かん)たり、その文章有り。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想の実行は位地の有無に関係せぬ(1)近時理想ということが一つの流行語になり、成功はいうにおよばず失敗をも理想に帰する傾向がある。この語にあざむかれず、これを間違えず翻訳する一方法として、僕はいかなる小事にあたっても、なにかことをなすときは、ちょっと退いて、これは自分の理想を実行するのか否かと考えたいと思う。たとえば愛国の理想を描くならば、戦争のとき、馬背にまたがって功名手柄をするをもってただちに理想とは称しがたい。なぜなれば馬に乗らずとも、戦線に立たずとも愛国の行為を遂げるみちはある。 また日本の政治を改善したいと思うまでは理想として嘉すべきであるが、これを行うには大臣にならねばならぬことはない。理想を実現するにある位地をむさぼるのはいまだ真の理想とは思われぬ。 教育家は教育をもって自分の理想とする。しかるにこの理想は文部大臣にならなければ実現ができないという人をよく糺してみると、真に教育のためにつくしたい志よりは、他に望みがあるのが多い。だんだんそのいうところを聞くと、教育云々というのは第三次の考えで、大臣になりたいということは第二次の考えで、第一次的根本の考えは馬車に乗り大廈に住いすることが理想なのである。つまりそれなら馬車会社の馬丁になるのがこの人の理想にかなっている。 あるいは実業家になりたいというは、いかなるところより起こった考えかと煎じつめると、実業家は美服を着け茶屋に行ってドンチャンやるにある。しからばこの望みも実業家たるにあらずして幇間でも俳優でもできるわざにある。とかく理想々々と高尚らしくいうが、とんでもないところから割出している者が多い。 日本の教育を進めるには、必ずしも大臣になりあるいは文部の役人となる必要はない。また県の教育課長、視学官になる必要もない。真に教育を理想とするなら、学校の教師になる必要もないくらいである。教えという字はなぐるとか叩くとかいうことを含んでいるようだが、育という字は子という字を顛倒し、下に肉月がついている。子が向こうを向いているのを、肉をもって――肉はまず旨いものとしてある――向こうを向いているものを引き寄せる意である。教育するという事がはたしてわれわれの理想であるとすれば、必ずしも役人となるを要しない。家にいて下女下男の教育もできる。また自分の女房子女を教育することもできる。