自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・理想はどこまで行っても達せられぬ
カーライルはかつて、「いかなる卑しい者といえどもけっしてこれに絶対的満足を与うることはできない」といった。なんとなれば絶対的満足は理想がことごとく充実された暁において始めて達せられるのである。 しかるにその理想はけっして満足されるということはない。またないはずである。人間は一を得ると第二が欲しくなる。第二段にのぼると第三段が欲しくなる。どこまで行っても人間の欲望の絶ゆるところがない以上は、けっして満足するものでない。いまのカーライルの言にあるとおり、いかなる賤しい、路傍の乞食でも、腹が空いているときに握飯を与えると、「三日も食わずにいたが、これは結構」といってありがたく頂戴する。も一つ与ろうとすると今度はそうありがたく思わない。 「塩加減が悪いから塩をまいていただきたい」「香の物をつけていただきたい」 という注文が出る。 三つめには、「握飯ばかりではなんですから塩引でも」という。 四つめには「塩物ばかりでは喉が乾く、刺身を」といいだす。乞食のごとき者でさえも、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足せぬ。 「八百膳」の料理を奢られても、三日続けて食わさるれば、不足を訴える。帝国ホテルの御馳走でも、たび重なればいやになる。食物だけのことを望めば、人間はいかなる酒池肉林に入れても永く満足はせぬものである。 人間には絶対的幸福はけっして得られるものでない。また得られぬはずのものである。この乞食が三日も飯を食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものは胃の腑である。握飯でも食いたいというのが彼の理想である。彼の理想というが、これは彼の理想でなくしてその実胃の腑の理想である。腹がいっぱいになり刺身が食いたいというのは、腹の理想でなく、舌の理想である。あるいは着物が着たいとか、高位につきたいとか、人に褒められたいとか、世の中に大きな顔がしたいとかいうは、虚栄心を充たす理想である。同じく理想というも、その出所を異にするから、したがってこれを充たす物体も変ってくる。自分の理想を絶対的に充たしえぬことは、あたかも犬の鼻の前にたれている肉のごとく、いかに肉に憧れて進んでもけっしてその望みの全部を達するときがない。
書き下し
カーライルはかつて、「いかなる卑しい者といえどもけっしてこれに絶対的満足を与うることはできない」といった。なんとなれば絶対的満足は理想がことごとく充実された暁において始めて達せられるのである。 しかるにその理想はけっして満足されるということはない。またないはずである。人間は一を得ると第二が欲しくなる。第二段にのぼると第三段が欲しくなる。どこまで行っても人間の欲望の絶ゆるところがない以上は、けっして満足するものでない。いまのカーライルの言にあるとおり、いかなる賤しい、路傍の乞食でも、腹が空いているときに握飯を与えると、「三日も食わずにいたが、これは結構」といってありがたく頂戴する。も一つ与ろうとすると今度はそうありがたく思わない。 「塩加減が悪いから塩をまいていただきたい」「香の物をつけていただきたい」 という注文が出る。 三つめには、「握飯ばかりではなんですから塩引でも」という。 四つめには「塩物ばかりでは喉が乾く、刺身を」といいだす。乞食のごとき者でさえも、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足せぬ。 「八百膳」の料理を奢られても、三日続けて食わさるれば、不足を訴える。帝国ホテルの御馳走でも、たび重なればいやになる。食物だけのことを望めば、人間はいかなる酒池肉林に入れても永く満足はせぬものである。 人間には絶対的幸福はけっして得られるものでない。また得られぬはずのものである。この乞食が三日も飯を食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものは胃の腑である。握飯でも食いたいというのが彼の理想である。彼の理想というが、これは彼の理想でなくしてその実胃の腑の理想である。腹がいっぱいになり刺身が食いたいというのは、腹の理想でなく、舌の理想である。あるいは着物が着たいとか、高位につきたいとか、人に褒められたいとか、世の中に大きな顔がしたいとかいうは、虚栄心を充たす理想である。同じく理想というも、その出所を異にするから、したがってこれを充たす物体も変ってくる。自分の理想を絶対的に充たしえぬことは、あたかも犬の鼻の前にたれている肉のごとく、いかに肉に憧れて進んでもけっしてその望みの全部を達するときがない。
現代語訳
カーライルはかつて、「どんな卑しい者でも、けっして絶対的な満足を与えることはできない」と言いました。なぜなら、絶対的な満足は、理想がことごとく満たされたときに初めて得られるものだからです。 ところが、その理想は、けっして満たされることはありません。また満たされないはずのものです。人間は一つを得ると第二が欲しくなります。第二段にのぼると第三段が欲しくなります。どこまで行っても人間の欲望の絶えるところがない以上は、けっして満足しないものです。今のカーライルの言葉のとおり、どんなに卑しい、道端の乞食でも、腹が空いているときにおにぎりを与えれば、「三日も食べずにいたが、これは結構」と言って、ありがたくいただきます。もう一つ与えようとすると、今度はそれほどありがたがりません。 「塩加減が悪いから、塩をふってください」「漬物をつけてください」 という注文が出ます。 三つめには、「おにぎりばかりではなんですから、塩鮭でも」と言います。 四つめには、「塩辛いものばかりでは喉が渇く、刺身を」と言い出します。乞食のような者でさえ、その欲望を満たそうとすれば、どこまで行っても満足しません。 「八百膳」の料理をごちそうしても、三日続けて食べさせれば、不足を訴えます。帝国ホテルのごちそうでも、度重なればいやになります。食べ物だけを望むとしても、人間はどんな酒池肉林に入れても、長く満足しないものです。 人間には絶対的な幸福は、けっして得られるものではありません。また得られないはずのものです。この乞食が三日も飯を食べないときにいちばん痛切に感じるものは、胃の腑です。おにぎりでも食べたいというのが彼の理想です。彼の理想と言いますが、これは彼の理想ではなく、実は胃の腑の理想です。腹がいっぱいになり、刺身が食べたいというのは、腹の理想ではなく、舌の理想です。あるいは着物が着たいとか、高い地位につきたいとか、人にほめられたいとか、世の中で大きな顔がしたいとかいうのは、虚栄心を満たす理想です。同じく理想といっても、その出どころが異なるので、それを満たす物も変わってきます。自分の理想を絶対的に満たすことができないのは、ちょうど犬の鼻の前にたれている肉のように、どんなに肉にあこがれて進んでも、その望みの全部を達する時がないのと同じです。
解説

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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・犬車の前に垂れ下げた肉片僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和辺あるいは東京でもときどき見る犬車というものがある。すなわち犬に曳かせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその肩骨の構造から考えても、車を曳くようにできておらぬが、とにかく方々で行われている。 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に曳かせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。擲っても叩いても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで悪戯の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれを食おうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。 われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想を行為に翻訳するが人生理想は何人でも、活きている者は必ずもっている。またこれがその生命である。耶蘇教で教えているとおり、「人はパンのみにて生くるものにあらず」。 人はなんで活きているかというに、理想で活きている。ただ呼吸するだけならパンだけでもよい、パンでなくとも、握飯でも麦飯でもよいけれども、この世に生きている甲斐には、なにか理想がなくてはならぬ。前の犬のごとくなにか前にぶらさがっているものを得ようと思うから動くのである。われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、理想なしにぶらぶら流れのまにまに活きていることは存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。ことばを換えていえば、人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。 理想という原語を行為に翻訳するのである。わからぬ外国語をわかるような言葉に換えることを翻訳というと同じく、もやもやしており、あるいははっきりしても形のない思想を、実際の言行に現すのである。これが人生というものではないかと思う。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は早晩実現せられるあるいは理想とはこの世で実現しうるような、そんな低いものでない。私の思想は、も一歩高く、到底この世で満足のできぬ理想をもっていると大きなことをいう人がある。しかしこれは理想でなく、むしろ空想というものである。 理想という以上は、合理的にして、分度ある欲望の要求であろうから、少なくともその幾部分は、吾人の在世中実現のできるものであると思う。この例はあたるかどうか知らぬけれども、われわれの理想なるものは、分量で測るものでなく、品質で測るものではなかろうか。たとえば花を見たいと思うと、菊でも桔梗でも花を見れば、すなわち花を見たいという理想の一部分を達したというものであろう。あるいはそれは違う、桔梗の花を見たいのでなく、花を見たいのである。花という以上は何万という花がある、その花の全体を見たいので一、二の花をもって満足するのでないというかも知れぬ。それがすなわち分量と品質の違うところである。 僕はつねに思う、一枝の花のなかに千種の花を見えぬ者は花を語るに足らぬと。すなわち理想を論ずる者は一の中に千万の数を読むを要する。われわれが理想とするところはいかに小なりとするも、その全体を実現することはできずともいく分かすることはできる。昔から天女を見ると、羽衣を着て自由自在に空中を飛び歩いている。おそらく交通機関としたら、これほど便利なものはあるまい。すなわち羽根が交通機関の理想のごとくなっていたから日本でも西洋でも自由自在に動くものの意匠には羽根をつけている。しかしこれは理想で、できるものでないといっていたが、二十世紀になり飛行機ができた。飛行機は羽根で飛ぶのでないが、空中を飛び歩くという点にいたってはやや多年の理想を実現したものといって差し支えない。 これと同じくわれわれの思うとおりの理想は行われないか知らぬが、その一部分は必ず行われると思う。これは国家社会の理想のみでなく、個人においてもそうであると思う。個人がこういうことをぜひ行いたいと望み、神や仏に祈れば、その祈願として合理的ならば必ずそれが早晩達せられると僕は確信する。なかには金が欲しく天から小判の降りきたるを理想とすればそれは実現されぬ。それは理想でなく、欲想である。実現せられぬのは理想でなく空想である。
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自警録・第二十三章 若返りの工夫・いつも若い人(2)事たれば足るにまかせて事たらず足らで事たる身こそ安けれ という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「事たる身こそ安けれ」というような、安心の時代はとうてい到来せぬであろう。 しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の形而下のことをのみ欲するを理想と呼ぶのは大なる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは当を得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。 なんとならば月給とかその他の物質的形而下の事柄については不足を甘んずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに俸給が上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感服できぬ。上がらなくとも喜んでいたい。否下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「吾は得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の「精神の井戸が水枯れした」のである、遼遠なるべき前途を放棄したのである。 彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ若死をすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長命と呼ぶ、なんの不可か是れあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや等しく遼遠なりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬大なる理想をいだくべきである。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想は所在に現れる(1)しかるにわれわれはややもすれば、理想なる文字のもとに野心を包み、あるいは月給をよけいに取りたい、人に褒められたい、いばりたいというような望みを包む。ゆえにだんだんいわゆる理想の奥を探るとすこぶる賤むべき野卑なる動機に到着することがしばしばある。自己の欲望の汚穢を掩うために理想という文字を用うるものがたくさんある。要するに理想の実現は位地によるものでない、心の底まで理想が透徹するならば、なにごとにあたっても実現すると思う。一杯の茶を飲もうが、一言の話をしようが、そのなかに理想が実現せられる。 人と交際するにあの人は茶を飲むにも余裕がありそうだという人がある。たとい茶を飲まなくともその人のそばにゆくと心地のよいことがある。西郷隆盛のそばにいると心地よく翁の身体から後光でも出ているように人は感じ、翁は近づくと襟を正さねばならぬほど威厳があった。威厳はあるが、なんとなく惹きつけられるようで近づきたくなり、いよいよ近づいても狎れて失礼することはできぬというふうであった。これ全く翁の心のそとに顕れたがためである。理想もまたかくのごとくならねばならぬ。
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自警録・第二十三章 若返りの工夫・いつも若い人(1)目前の現実世界を離れて、しばらく人生を理想化し、理想の天地を追うの美点はいわゆる老人になると次第に減じてゆくように思われる。かく理想の減じゆきて実際的になるのをもってただちにこれを着実と呼び賞賛する者もあるが、わが輩から言わせるとこれは俗化して若き気象がなくなるのである。すなわち青年においてもっとも愛すべく、もっとも尊ぶべき、高朗なる性情が消えるのである。「大人にしてなお赤児のごとし」という語があるが、しいて赤児のごとくにならずとも、すくなくともいつまでも青年の気概を失わずにあるを要する。「あの人は年とってもいつも若い気でいる」という語もしばしば聞くが、これも意味がたくさんあるではあろうが、しかし僕は年齢にかかわらずに理想にあこがれる人という意味に解釈し、いつも若い気でいる者は実に尊敬すべき価値ある人なりと考える。かくのごとき人の心には余裕がある。すなわち生木のようなる弾力があって、世の変遷とともに進む能力を保留している。「老木は曲らぬ」とは邪道に迷わぬの意より弾力なきを笑うの言である。 およそ何事においても行きづまれるは見悪きものなるが、ことに理想において行きづまり、若い気のなくなった人は、まるで枯木に弾力なきに等しく実にみすぼらしい。また自分にはこれ以上に希望なしとて、現状ですでに得意がりあるいは落胆している人は一層気の毒である。ところが誰でも少し油断すると小成に安んじ、これでよいという気になりやすく、しからざればなにごとについてもいたずらに不満の声を高くして、一見理想があるようにも見ゆるがこれ必ずしもしからずである。いわゆる成功なるものは多く理想の低き人の口にするところで、十円の月給をもらう人が百円を目的とし、その百円の月給を得るにいたれば、これを成功と称し自ら安心する。これあるいは成功であるかも知れぬ。しかしながら物質的目的を達するをもってただちに理想とするごときははなはだ当を得ないことではなかろうか。欲心と理想とはちがう。欲は迷想とこそいうべけれ、理想とは称しがたい。