自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・犬車の前に垂れ下げた肉片
僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和辺あるいは東京でもときどき見る犬車というものがある。すなわち犬に曳かせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその肩骨の構造から考えても、車を曳くようにできておらぬが、とにかく方々で行われている。 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に曳かせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。擲っても叩いても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで悪戯の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれを食おうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。 われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。
書き下し
僕がヨーロッパ旅行中、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和辺あるいは東京でもときどき見る犬車というものがある。すなわち犬に曳かせて荷を運ぶ小さな車である。これは犬の使用法として理想に適したものとは思われぬ。犬というものはその肩骨の構造から考えても、車を曳くようにできておらぬが、とにかく方々で行われている。 ヨーロッパのある都会では小僧が車に乗り、犬に曳かせて用を達している。しかるに犬が空腹になるとなかなか動かぬ。擲っても叩いても動かない。このときに肉でも与えると動きだす。そこで悪戯の小僧らは、自分が車の上に乗り、乗ったまま棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻さきへぶらさげる。犬はこれを食おうと思いワンといって動きだす。いくら動いてもけっして達することはできぬ。どこまでも肉をとろうとして進むが、いくら進んでも肉はけっして口に入らぬ。僕は人間の理想というものもかくのごときものでありはせぬかという考えをもっている。 われわれが一つの理想をもって進む。一歩進むとまた一歩前に理想がある。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎぬように思われる。理想というものははたして達しえざるものであろうか。
現代語訳
私がヨーロッパを旅行している間、ベルギー、オランダ、ドイツなどでしばしば見たことがあり、また日本でも大和のあたりや東京でときどき見かける、犬車というものがあります。犬に曳かせて荷を運ぶ小さな車です。これは犬の使い方として理想にかなったものとは思われません。犬というものは、肩の骨の構造から考えても、車を曳くようにはできていませんが、とにかく方々で行われています。 ヨーロッパのある都会では、小僧が車に乗り、犬に曳かせて用を足しています。ところが犬が空腹になると、なかなか動きません。殴っても叩いても動かない。このとき肉を与えると動き出します。そこで、いたずらな小僧たちは、自分が車の上に乗ったまま、棒の先に肉をつけて、車の上から犬の鼻先にぶら下げます。犬はこれを食おうと思い、ワンと言って動き出します。いくら動いても、けっして届くことはできません。どこまでも肉を取ろうとして進みますが、いくら進んでも肉はけっして口に入りません。私は、人間の理想というものも、このようなものではないかという考えを持っています。 私たちは一つの理想を持って進みます。一歩進むと、また一歩先に理想があります。何歩進んでも同じことを繰り返すに過ぎないように思われます。理想というものは、はたして達することができないものでしょうか。
解説

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