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自警録 / 第二十二章 感情より出た職業選択・余の友人にも同じ経験がある

しかしこれは独り伊藤公のみでない。ときどき凡人の間においてもまた同様である。僕の友人にもまたこれを証明すべき適切の事例があるから、ここにこれを挙示したい。 彼は青年時代、学校にあるやいずれの学科も人並にできたためにかえって職業の選択に大いに迷った。ある時は実業家にならんと考えたこともあるが、子供のときには政治家になる望みがもっとも強かった。そののち世の中の腐敗を聞き宗教家にならんとまで考え込んだことあり、また学者となって身を立てようという考えを起こしたこともある。 しかるに彼が十九歳のころなりしと聞く。一夜北国にありて月明に乗じ独り郊外を散歩し、一軒立ての藁家の前を通過せんとした。ふと隙漏る光に屋内を覗うと、炉を囲める親子四、五人、一言だも交さずぼんやりとして安を貪っていた。そのころ彼は、宗教家たらんとの念が最高潮に達していたときであったが、この有様を見、この考えが急に一転した。というのは親子夫婦共働し、雪を踏んで家に帰れば身体すでに疲憊し、夕食を終ればたがいに物語るだけの元気も失せ、わずかに拾った薪に身を暖め、安を貪るがごとき輩が、どうして教育や宗教などを考うる余地があろう。彼らをして人間らしい精神をもたせるには、まずなによりも衣食足るの道を講ぜしめねばならぬ。 さりとて衣食の充足のみに進ましむればただ奢侈に流るるのみである。衣食充足の道を講ずるとともに、精神的教訓を与うることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善するは、すべての改良の根本なりとの観念に打たれ、その翌日より倫理学、心理学の書をかたづけ、急に経済学の書を読み始めたという談を聞いた。これだけの談を聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決したようにも思われるが、また詳しくその事情を聞くとこの考えに到達するに順序があったようである。すなわち彼の先代の関係だとか、あるいは彼の北国における境遇とかいろいろさまざまの勢力が知らずしらず彼をある方面に向かわしめていたのを、この冬の一夜の出来事がいよいよ自覚的にこれを決定せしめたものである。

書き下し

しかしこれは独り伊藤公のみでない。ときどき凡人の間においてもまた同様である。僕の友人にもまたこれを証明すべき適切の事例があるから、ここにこれを挙示したい。 彼は青年時代、学校にあるやいずれの学科も人並にできたためにかえって職業の選択に大いに迷った。ある時は実業家にならんと考えたこともあるが、子供のときには政治家になる望みがもっとも強かった。そののち世の中の腐敗を聞き宗教家にならんとまで考え込んだことあり、また学者となって身を立てようという考えを起こしたこともある。 しかるに彼が十九歳のころなりしと聞く。一夜北国にありて月明に乗じ独り郊外を散歩し、一軒立ての藁家の前を通過せんとした。ふと隙漏る光に屋内を覗うと、炉を囲める親子四、五人、一言だも交さずぼんやりとして安を貪っていた。そのころ彼は、宗教家たらんとの念が最高潮に達していたときであったが、この有様を見、この考えが急に一転した。というのは親子夫婦共働し、雪を踏んで家に帰れば身体すでに疲憊し、夕食を終ればたがいに物語るだけの元気も失せ、わずかに拾った薪に身を暖め、安を貪るがごとき輩が、どうして教育や宗教などを考うる余地があろう。彼らをして人間らしい精神をもたせるには、まずなによりも衣食足るの道を講ぜしめねばならぬ。 さりとて衣食の充足のみに進ましむればただ奢侈に流るるのみである。衣食充足の道を講ずるとともに、精神的教訓を与うることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善するは、すべての改良の根本なりとの観念に打たれ、その翌日より倫理学、心理学の書をかたづけ、急に経済学の書を読み始めたという談を聞いた。これだけの談を聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決したようにも思われるが、また詳しくその事情を聞くとこの考えに到達するに順序があったようである。すなわち彼の先代の関係だとか、あるいは彼の北国における境遇とかいろいろさまざまの勢力が知らずしらず彼をある方面に向かわしめていたのを、この冬の一夜の出来事がいよいよ自覚的にこれを決定せしめたものである。

現代語訳

しかし、これは伊藤公に限ったことではありません。ときどき凡人のあいだでも、同様のことがあります。私の友人にも、これを証明する適切な事例がありますので、ここに挙げたいと思います。 彼は青年時代、学校にいるときに、どの学科も人並みにできたために、かえって職業の選択に大いに迷いました。あるときは実業家になろうと考えたこともありますが、子供のときは、政治家になる望みがもっとも強かったのです。その後、世の中の腐敗を聞いて、宗教家になろうとまで考え込んだことがあり、また学者として身を立てようという考えを起こしたこともあります。 ところが、彼が十九歳のころだったと聞きます。ある夜、北国で月明かりに乗じて、ひとり郊外を散歩し、一軒家の藁ぶきの家の前を通り過ぎようとしました。ふと、隙間から漏れる光で屋内をのぞくと、炉を囲んだ親子四、五人が、一言も交わさず、ぼんやりと安らぎをむさぼっていました。そのころ彼は、宗教家になろうという思いが最高潮に達していたときでしたが、この有様を見て、この考えが急に一転しました。というのは、親子夫婦が共に働き、雪を踏んで家に帰れば身体はすでに疲れきり、夕食が済めば互いに語り合う元気も失せ、わずかに拾った薪で身を暖め、安らぎをむさぼるような人々に、どうして教育や宗教などを考える余地があるだろう。彼らに人間らしい精神を持たせるには、まず何よりも衣食が足りる道を講じさせなければならない。 かといって、衣食の充足だけに進ませれば、ただ贅沢に流れるだけである。衣食充足の道を講じるとともに、精神的な教訓を与えることはもちろん必要であるが、ともかく下層階級の経済状態を改善することは、すべての改良の根本であるという観念に打たれ、その翌日から、倫理学や心理学の書物を片付けて、急に経済学の書物を読み始めた、という話を聞きました。これだけの話を聞けば、彼は一時の感情に打たれて職業を決めたようにも思われますが、また詳しくその事情を聞くと、この考えに到達するには順序があったようです。つまり、彼の先代の関係とか、北国での境遇とか、いろいろさまざまな力が知らず知らず彼をある方面に向かわせていたのを、この冬の一夜の出来事が、いよいよ自覚的にこれを決定させたのです。

解説

新渡戸は、迷い続けた友人が十九歳の夜、北国の一軒家で炉を囲む疲れ切った家族を見て、宗教より先に衣食を整えるべきだと考え、経済学へ転じた話を紹介します。一夜の出来事に見えて、先代との関係や土地での境遇という積み重ねが背景にあったと言います。伊藤博文の例と同じ型で、きっかけは決定の最後の一押しです。現代の転職や進路変更でも、決断の日の出来事だけでなく、そこに至る蓄積を振り返ると、納得の質が変わります。
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この章句が説くこと

職業選択友人経済学一夜の出来事衣食足る自覚

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