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自警録 / 第二十二章 感情より出た職業選択・伊藤公発憤の動機を見よ

一日、横山健堂氏より故伊藤公に関する趣味多き談を聞いた。公がかつて吉田松陰先生の塾にいたとき、一夜、他の塾生とともに炉を囲んで談話しているあいだに、公は時の長州藩の家老が人を得ないことを憤慨した。これを聞いていた松陰先生は、平生は女子のごとく柔しくしてめったに大声だも発せぬ人であったにかかわらず、この時にかぎり声を励まして、 「貴様の言うごとく自ら天下を料理する考えを真面目に有するなら、長州家老の適否のごとき歯牙にかくるに値いなきものである。しかるにいま貴様の言を聴けば、それはやはり家老どもの力を藉らねば、天下が治まらぬというごとき卑怯の意志あることを自白するにほかならぬ。そんなことで天下の大勢がわかるものか」 と叱咤した。つねになき激語を発したので弟子どもも一時はあっけにとられたという。伊藤公は多数塾生の面前でかく叱られ、心に恥じたが、さすがに伊藤公だけあって深くこの教訓を心に銘じ、この時より自分のあらゆる能力をもって天下のためにつくさんことを決心したと、数年後帰省されたとき旧塾のなかでこの述懐談をしたことがあるという。 伊藤公が先生に叱られたその瞬間に起こった一時の感情が同公をして政治家たらしめたかと質せば、その時始めて「寝耳に水」のごとくこの教訓が公の耳朶を打ったとは思われぬ。また松陰先生にしても誰にでもこの筆法をもって鞭撻されたとも思われぬ。日ごろ先生が公に見るところあり、この機に乗じて一針を加えたにすぎぬ。また伊藤公にとりてはこの一言を含味しうるだけの素養がすでに胸中にあったから、その決心は一時の感情のごとく見えながら、しかもその実、数年来胸中にしらずに蘊蓄された熟慮を引き出させたのである。

書き下し

一日、横山健堂氏より故伊藤公に関する趣味多き談を聞いた。公がかつて吉田松陰先生の塾にいたとき、一夜、他の塾生とともに炉を囲んで談話しているあいだに、公は時の長州藩の家老が人を得ないことを憤慨した。これを聞いていた松陰先生は、平生は女子のごとく柔しくしてめったに大声だも発せぬ人であったにかかわらず、この時にかぎり声を励まして、 「貴様の言うごとく自ら天下を料理する考えを真面目に有するなら、長州家老の適否のごとき歯牙にかくるに値いなきものである。しかるにいま貴様の言を聴けば、それはやはり家老どもの力を藉らねば、天下が治まらぬというごとき卑怯の意志あることを自白するにほかならぬ。そんなことで天下の大勢がわかるものか」 と叱咤した。つねになき激語を発したので弟子どもも一時はあっけにとられたという。伊藤公は多数塾生の面前でかく叱られ、心に恥じたが、さすがに伊藤公だけあって深くこの教訓を心に銘じ、この時より自分のあらゆる能力をもって天下のためにつくさんことを決心したと、数年後帰省されたとき旧塾のなかでこの述懐談をしたことがあるという。 伊藤公が先生に叱られたその瞬間に起こった一時の感情が同公をして政治家たらしめたかと質せば、その時始めて「寝耳に水」のごとくこの教訓が公の耳朶を打ったとは思われぬ。また松陰先生にしても誰にでもこの筆法をもって鞭撻されたとも思われぬ。日ごろ先生が公に見るところあり、この機に乗じて一針を加えたにすぎぬ。また伊藤公にとりてはこの一言を含味しうるだけの素養がすでに胸中にあったから、その決心は一時の感情のごとく見えながら、しかもその実、数年来胸中にしらずに蘊蓄された熟慮を引き出させたのである。

現代語訳

ある日、横山健堂氏から、故伊藤公に関する興味深い話を聞きました。伊藤公がかつて吉田松陰先生の塾にいたとき、ある夜、ほかの塾生とともに炉を囲んで話をしているうちに、公は当時の長州藩の家老に人材がいないことを憤慨しました。これを聞いていた松陰先生は、ふだんは女性のように柔和で、めったに大声さえ出さない人でしたが、このときに限って声を励まして、 「お前の言うように、自ら天下を料理する考えを真面目に持っているのなら、長州の家老の適否など、歯牙にかけるに値しないはずだ。ところが今、お前の言うことを聞けば、やはり家老どもの力を借りなければ天下が治まらないという、卑怯な意志があることを白状しているにほかならない。そんなことで天下の大勢が分かるものか」 と叱りつけました。ふだんにない激しい言葉を発したので、弟子たちも一時はあっけにとられたといいます。伊藤公は大勢の塾生の前でこのように叱られ、心に恥じましたが、さすがに伊藤公だけあって、深くこの教訓を心に刻み、この時から自分のあらゆる能力をもって天下のために尽くそうと決心した、と数年後に帰省したとき、旧塾の中でこの述懐談をしたそうです。 伊藤公が先生に叱られたその瞬間に起こった一時の感情が、公を政治家にしたのかと問えば、そのときに初めて「寝耳に水」のようにこの教訓が公の耳を打ったとは思えません。また松陰先生にしても、誰にでもこの調子で励ましたとは思えません。日ごろ先生が公に見るところがあり、この機に乗じて一針を加えたにすぎません。また伊藤公にとっても、この一言を味わえるだけの素養がすでに胸中にあったからこそ、その決心は一時の感情のように見えながら、実は数年来、胸中に知らず知らず蓄えられていた熟慮を引き出させたのです。

解説

若き日の伊藤博文が松陰の塾で長州藩の家老を憤慨したところ、松陰が声を励まして叱った逸話です。天下を治める気なら家老の適否など気にするなという一喝で、伊藤は自分の甘さを悟り、天下のために尽くす決心をしました。新渡戸は、これを一時の感情と見ず、日頃の観察と、受け止める素養があったからと分析します。松陰は伊藤を知っていたから叱りました。現代の部下指導でも、強い言葉が効くかは普段の関係と本人の素地で決まります。
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この章句が説くこと

吉田松陰伊藤博文叱咤立志素養一時の感情

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