自警録 / 第二十章 忠告の取捨・抽象的の教訓も初めて具体的に会得する
僕がさきに述べた、艱難誘惑を仮想的に描いて、これに対する方法を定めよとは、まことに子供らしいことはわが輩も承知である。これを読む諸君なかんずく聖人、君子、英雄、豪傑らは、僕の言の幼稚なるにふきだすであろう。けれども僕はしばしば言いしとおり、僕の同僚たる凡人に対して話をするのであるから、よろしく非凡の人々は諒としてもらいたい。 この仮想によって、抽象的の教えを具体的に翻訳して初めて意味が明瞭にかつ実際的になり得る。明瞭に実際的にならなければ、いかなる金言もなんの値もない。そのかわり明瞭に実際に自分の言行を支配する力があれば、いかなる卑見も黄金の値を有するにいたる。それであればこそ路傍で耳朶に触れた一言が、自分の一生の分岐点となったり、片言でいう小児の言葉が、胸中の琴線に触れて、涙の源泉を突くことがある。老嫗の一口噺が一生涯の基を固めたり、おのれながらなんでそんなつまらぬことが、こんなに自分を刺激したろうと驚くことがままある。 釈迦が東西南北の門を出で、あるいは病める者あるいは死せる者、あるいは老いたる者あるいは貧しき者を見て、人生観に新しき立脚地を開いたが、病める者死せる者老いたる者貧しき者はわれわれも毎日眼にしておりながら、われわれはあえてこれがために新しき人生観も得ない。
書き下し
僕がさきに述べた、艱難誘惑を仮想的に描いて、これに対する方法を定めよとは、まことに子供らしいことはわが輩も承知である。これを読む諸君なかんずく聖人、君子、英雄、豪傑らは、僕の言の幼稚なるにふきだすであろう。けれども僕はしばしば言いしとおり、僕の同僚たる凡人に対して話をするのであるから、よろしく非凡の人々は諒としてもらいたい。 この仮想によって、抽象的の教えを具体的に翻訳して初めて意味が明瞭にかつ実際的になり得る。明瞭に実際的にならなければ、いかなる金言もなんの値もない。そのかわり明瞭に実際に自分の言行を支配する力があれば、いかなる卑見も黄金の値を有するにいたる。それであればこそ路傍で耳朶に触れた一言が、自分の一生の分岐点となったり、片言でいう小児の言葉が、胸中の琴線に触れて、涙の源泉を突くことがある。老嫗の一口噺が一生涯の基を固めたり、おのれながらなんでそんなつまらぬことが、こんなに自分を刺激したろうと驚くことがままある。 釈迦が東西南北の門を出で、あるいは病める者あるいは死せる者、あるいは老いたる者あるいは貧しき者を見て、人生観に新しき立脚地を開いたが、病める者死せる者老いたる者貧しき者はわれわれも毎日眼にしておりながら、われわれはあえてこれがために新しき人生観も得ない。
現代語訳
私が先に述べた、艱難や誘惑を仮想的に思い描いて、それに対する方法を定めておけというのが、まことに子供らしいことは、私も承知しています。これを読む諸君、とりわけ聖人、君子、英雄、豪傑といった方々は、私の言葉の幼稚さに吹き出されることでしょう。けれども私はたびたび言ってきたとおり、私の同僚である凡人に向けて話しているのですから、非凡な方々にはどうかお許しいただきたいと思います。 この仮想によって、抽象的な教えを具体的に翻訳して、初めて意味が明瞭に、そして実際に役立つものになります。明瞭に実際的にならなければ、どんな金言も何の値打ちもありません。その代わり、明瞭に実際に自分の言動を支配する力があれば、どんなつまらない意見でも黄金の値打ちを持つようになります。だからこそ、道端で耳に触れた一言が一生の分かれ道になったり、片言の子供の言葉が胸の琴線に触れて涙の泉を突いたりすることがあります。老婆の一口話が一生の土台を固めたり、自分でも、どうしてあんなつまらないことがこんなに自分を刺激したのだろうと、驚くことがよくあります。 釈迦は東西南北の門を出て、病人、死人、老人、貧しい人を見て、人生観に新しい足場を開きました。ところが、病人も死人も老人も貧しい人も、私たちは毎日目にしていながら、そのために新しい人生観を得ることはありません。
解説

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新語・慎微夫れ目の黒白を別つ能わず、耳の清濁を別つ能わず、口の善悪を言う能わざるは、則ち所謂能わざるなり。故に道を設くる者は見曉し易く、凡人の心に通じて、不能の行に達する所以なり。道は、人の行く所なり。夫れ大道は之を履みて行けば、則ち能わざる無し。故に之を道と謂う。故に孔子曰く、「道の行われざるや」と。人の行う能わざるを言うなり。故に顔淵に謂いて曰く、「之を用うれば則ち行い、之を舎つれば則ち蔵す、惟だ我と爾と是れ有るかな」と。顔淵の道世に施せども之を用うる莫きを言うなり。人の仁を懐き義を行い、纖微を分別し、天地を忖度する能わざるに由り、乃ち身を苦しめ形を労し、深山に入り、神仙を求め、二親を棄て、骨肉を捐て、五穀を絶ち、詩・書を廃し、天地の宝に背き、不死の道を求む。世に通じ非を防ぐ所以に非ざるなり。
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『大和俗訓』巻之八・応接一人の善言を聞きて移りやすきは、誠によし。人の不善なる言を聞きて、移りやすき人あり。まよへりと云ふべし。是知なければなり。よく心の内に思案し、其言の是非をわきまへて、悪しき言にまよふべからず。一古人の言に、衆人を以て人を望めば、人従ひやすしといへり。衆人とは凡夫のことなり。人の我に対し不義なるをば、凡夫なればかくこそあらめと思ひ、なだめ許して咎めざれば、人我に従ひやすく、人そむかずとなり。君子の道を以て矩にして、凡夫を一々ただせば、一も矩にあはず。一人も全き人なかるべし。かくの如くすれば、人我に従はず、背きやすし。ひが事多きは、うき世のならひぞと思ひさとりて、人をとがめ世をうらみざる事、君子の心なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、性善を知るは、至極のことにて有べけれど、我等ごときは、何程聞ても得らるべきにあらず。孟子の如き器量あらば善ならん。後世の者、所詮及び難し。又世界数万億の中に、纔に二十人三十人、仮令九十百に至り、得心する人ありとも、いはゞ少しのことなり。只心易云て、世渡りを能するこそ善かるべけれ。仏者ならば、極楽へ往生すと云て悦ばせ、儒者ならば、天地に升降と云こそ、勝んと思へり。仮令覚ればとて、同じ天地なれば、苦んで益なきことにあらずや。
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