自警録 / 第二十章 忠告の取捨・教訓を責道具に使うなかれ
こういう僕もこれより言わんと欲することについて、自ら反対の例となるの恐れなきにしも非ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。 老人らが懇々と吾人に身の治め方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維新前の話をしているわいと、馬耳東風に聞き流すことが多い。また吾人の真情や実況を一通り心得ている友人が懇切に我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ俺の腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸底で笑いたくなることもある。 またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽の金言と称せらるる教訓に触れても、甘いことをいっている、この訓は某に聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心地することがままある。 ゆえに、少しく油断すると聖人君子の言葉を用いて他人を責むる道具とする懼がある。さればこそ、他人を偽君子と呼び、不忠不義と罵り、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を罪するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。 こういうふうに他人が吾人のために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先賢が血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境涯に達しない、すなわち自己の非を悟らず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が吾人の境遇を充分知らぬゆえである。
書き下し
こういう僕もこれより言わんと欲することについて、自ら反対の例となるの恐れなきにしも非ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。 老人らが懇々と吾人に身の治め方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維新前の話をしているわいと、馬耳東風に聞き流すことが多い。また吾人の真情や実況を一通り心得ている友人が懇切に我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ俺の腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸底で笑いたくなることもある。 またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽の金言と称せらるる教訓に触れても、甘いことをいっている、この訓は某に聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心地することがままある。 ゆえに、少しく油断すると聖人君子の言葉を用いて他人を責むる道具とする懼がある。さればこそ、他人を偽君子と呼び、不忠不義と罵り、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を罪するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。 こういうふうに他人が吾人のために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先賢が血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境涯に達しない、すなわち自己の非を悟らず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が吾人の境遇を充分知らぬゆえである。
現代語訳
これから私が言おうとすることについて、自分自身が反対の見本になってしまう恐れがないわけではありません。けれども、言わずにおけば、かえって悪い例をひとつ増やすだけですから、しばらく読者のお耳を拝借したいと思います。読者もきっと私と同じ経験がおありでしょうが、ともすると他人が私たちに与える忠告や訓戒は、こちらにとってまるで見当ちがいに感じられることが多いものです。 年寄りが親身になって身の処し方を説いてくれても、この老いぼれが維新前の話をしているよと、馬の耳に念仏で聞き流すことが多いのです。また、私たちの本心や実情をひととおり知っている友人が親切に忠告してくれるときでも、ともすればこの男はまだ俺の腹の内を知らない、なんと的はずれなことを言うものかと、心の底で笑いたくなることもあります。 また、私たちが『論語』や『聖書』を読んで、万世不朽の金言とされる教えに触れたときでも、甘いことを言っている、この教えはあの男に聞かせてやりたいものだと、自分に当てはめて考えるよりも、他人に応用している気持ちになることがよくあります。 ですから、少し油断すると、聖人君子の言葉を、他人を責める道具にしてしまう恐れがあります。だからこそ、他人を偽君子と呼び、不忠不義とののしり、あるいは説教にかこつけて聖人の句を引き、人を罪に定めるといった、おもしろおかしいことが起こりがちなのです。 このように、他人が私たちのために与える訓戒も、友人が真心から述べる忠告も、先人が血を流して教えた大義も、自分の身には直接当てはまらないように思えることが多いのは、一つには、自分がこれらの言葉を十分に味わえるところまで達していない、つまり自分の非を悟らず、自分の弱点を察していないからです。もう一つには、忠告する人が私たちの境遇を十分に知らないからです。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・修身・我を攻むるの益に感ず我が過ちを攻むる者は、未だ必ずしも皆な過ち無きの人ならざるなり。苟しくも過ち無きの人の我を攻むるを求めば、則ち終身過ちを聞くを得ざらん。我は當に其の我を攻むるの益に感ずるのみ。彼に過ち有るか過ち無きか、何ぞ計るに暇あらんや。
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自警録・第二十章 忠告の取捨・正しき時に正しき言を放つは賢人なお他人に忠告するについては、一言したいことがある。たびたび言うとおり聖人君子でないわれわれ凡人に訓戒を与えることははなはだむずかしいし、また与えたところが釈迦、孔子、耶蘇の訓戒でさえもいちいち反応ないのに、われわれの訓戒が功を奏することはおぼつかなく思う。 友人に忠告することは常にあることで、ある意味においては世にありすぎることである。こんなことまで忠告するにおよばんのにと思うことがままある。 しかし忠告する値があることについても、もっとも注意すべきは時を選ぶ一条である。友人の心の畑が耕されているや否や、英国の諺に賢人とは正しき時に、正しき言を放つ者なりとあるが、実にそのとおりで、どんな正しい言でも時ならぬ時に放てば愚人の言にも劣る。おそらく多くの人はみな経験があるだろう。 まじめになって、友人を諫めたためにあるいは友誼を破り、あるいは他人の心に反抗心を惹き起こさせて、いっそう彼を堕落せしむるの機縁となることがある。時ならぬ忠告は有害ならぬまでも、無益におわる場合多ければ、葬式に祝詞を呈し、めでたき折に泣き言を述ぶるに等しきことは常識に任せて謹みたい。 僕のたびたび引用する『菜根譚』に、 「人の悪を攻むるは太だ厳なるなかれ、その受くるに堪うるを思うを要す。人に教うるに善を以てするは、高きに過ぐるなかれ、それをして従うべからしむべし」 とある。
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『斉家論』上然れども推し出だし儒者とはいはれまじ。又世間に沙汰なき人にも出会うて見れば、経書はいふに及ばず、詩作文章達者なる能き学者あり。又儒者ならねども、少し心がけある人には、汝ぐらゐの学者は町並にも有るべし。其の中にて無縁の講釈すると、口広き事はいはれまじ。夫をもかまはず書付を出だされなば、聴く者もあるべけれど、一度聞きては、素読同前の講釈なりといひ、又口の悪しき者は、あの学問にて講釈するは、笑ふにたらずと譏るべし。たとひ十日廿日入れかはり聴衆ありとも、つづくまじ。其の時に至り、しまはんよりは、今七八年も学問し出でられなば、本望もとげ、恥を受くることも少なからんといはれし人も、過ぎ去りむかしがたりになりぬ。或人のいへるごとく、
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『呻吟語』内篇・應務・忠告して善く之を道く今子弟の父兄の責を受くるや、尚ほ堪へざる所有り。而るに況んや他人をや。孔子曰く、「忠告して善く之を道き、不可なれば則ち止む」と。此の語は交はりを全うするに止まらず、亦た以て氣を養ふ可し。
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論語・顔淵篇子貢、友を問う。子曰く、「忠告して善く之を道き、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるること毋かれ。」
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易経・夬卦勝たずして往くは、咎なり。莫夜に戎有るも、中道を得ればなり。君子夬夬たるは、終に咎无きなり。其の行くこと次且たるは、位当らざればなり。言を聞きて信ぜざるは、聡明らかならざればなり。中行なれば咎无しとは、中未だ光いならざるなり。号ぶこと无きの凶は、終に長かるべからざるなり。