自警録 / 第二十章 忠告の取捨・教訓を味わう力が足らない
今しばらく第一の点について一言したい。これをいうについては例のとおり僕は自ら経験した恥もさらさねばならぬ。 たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ不始末であった。不始末といえばあるいは他人を借り倒したり、人に迷惑かけたりするように聞こえるか知らんが、それほどにまでは不始末を実行したとは思わぬが、僕のいわゆる不始末は、小使帳をつけないとか、予算を立てないということである。これがために自分が知らないうちに懐が空になったり、旅行中に費用が不足したりすることが折々ある。このことについては親戚友人から折々忠告もされたが、しかし非常に行きづまって進退これきわまるときまで、その忠告のいかに懇切に、いかに穿っているかを味わうことができなかった。 「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」 と諺にいうごとく、親が存命で孝行する機会のあるときに孝道の教訓を聞いても、なに分かりきったこと、百も承知と思いながら怠るが、親無きあとで『孝経』を読みかえすと、初めてその「経書」の真意が明らかになる。これ故人の忠告が不足なるにもあらず、『孝経』の悪いのでもない。ひたすら自分が訓戒あるいは忠告を理解するの力なく、これを受け容れる襟度のなかったためである。くどくどしく細かいことをいうようだが、具体的の例をあげると、酒好きの者に飲酒の害、禁酒の徳をどれほどくりかえしても、なかなか耳に入らぬが、いよいよその害毒が身におよんで病いにでもかかると初めて成るほどという観念が起こる。 また放蕩にふけっている者も同じことで、耽溺しているあいだは『論語』をもっても『法華経』をもってもなかなか浮かびきれない。説けば説くほど自分に関係ないことのように心得て、「君の言うことは一々もっともだが、僕の場合は少し違う。君が心配するほどのことはないよ」底の考えでますます深みに陥るのもわれわれはしばしば見る。しかるにこの人にして相手方が彼を欺くか、あるいは自ら飽きてくると初めて目が覚める。かつて友人のいったことがテッキリ自分のことであった、『聖書』の文句の何章何節は、自分個人のために書かれたものであるごとく感じられてくる。
書き下し
今しばらく第一の点について一言したい。これをいうについては例のとおり僕は自ら経験した恥もさらさねばならぬ。 たとえば小さいことながら、僕は若い時から金を使うにはなはだ不始末であった。不始末といえばあるいは他人を借り倒したり、人に迷惑かけたりするように聞こえるか知らんが、それほどにまでは不始末を実行したとは思わぬが、僕のいわゆる不始末は、小使帳をつけないとか、予算を立てないということである。これがために自分が知らないうちに懐が空になったり、旅行中に費用が不足したりすることが折々ある。このことについては親戚友人から折々忠告もされたが、しかし非常に行きづまって進退これきわまるときまで、その忠告のいかに懇切に、いかに穿っているかを味わうことができなかった。 「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」 と諺にいうごとく、親が存命で孝行する機会のあるときに孝道の教訓を聞いても、なに分かりきったこと、百も承知と思いながら怠るが、親無きあとで『孝経』を読みかえすと、初めてその「経書」の真意が明らかになる。これ故人の忠告が不足なるにもあらず、『孝経』の悪いのでもない。ひたすら自分が訓戒あるいは忠告を理解するの力なく、これを受け容れる襟度のなかったためである。くどくどしく細かいことをいうようだが、具体的の例をあげると、酒好きの者に飲酒の害、禁酒の徳をどれほどくりかえしても、なかなか耳に入らぬが、いよいよその害毒が身におよんで病いにでもかかると初めて成るほどという観念が起こる。 また放蕩にふけっている者も同じことで、耽溺しているあいだは『論語』をもっても『法華経』をもってもなかなか浮かびきれない。説けば説くほど自分に関係ないことのように心得て、「君の言うことは一々もっともだが、僕の場合は少し違う。君が心配するほどのことはないよ」底の考えでますます深みに陥るのもわれわれはしばしば見る。しかるにこの人にして相手方が彼を欺くか、あるいは自ら飽きてくると初めて目が覚める。かつて友人のいったことがテッキリ自分のことであった、『聖書』の文句の何章何節は、自分個人のために書かれたものであるごとく感じられてくる。
現代語訳
今しばらく、第一の点について一言したいと思います。これを言うにあたっては、いつものとおり、私自身が経験した恥もさらさなければなりません。 たとえば小さなことですが、私は若いころから、お金の使い方がたいへんだらしがありませんでした。だらしがないと言うと、他人に借りを踏み倒したり、人に迷惑をかけたりするように聞こえるかもしれませんが、そこまでの不始末をしたとは思いません。私のいうだらしなさとは、小遣い帳をつけないとか、予算を立てないということです。そのせいで、知らないうちに財布が空になったり、旅行中に費用が足りなくなったりすることが、ときどきありました。このことは親戚や友人からときどき忠告されましたが、本当に行きづまって身動きがとれなくなるときまで、その忠告がどれほど親切で、どれほど急所を突いていたかを、味わうことができませんでした。 「子を持って知る親の恩」「孝行をしたい時には親は無し」 という諺にあるとおり、親が存命で孝行する機会があるときには、孝の教えを聞いても、なに、分かりきったこと、百も承知と思いながら怠ります。ところが親を亡くしたあとで『孝経』を読み返すと、初めてその経書の真意が明らかになります。これは、亡き人の忠告が足りなかったのでも、『孝経』が悪いのでもありません。ひたすら自分に、訓戒や忠告を理解する力がなく、これを受け入れる度量がなかったからです。くどくどと細かいことを言うようですが、具体的な例を挙げれば、酒好きの者に飲酒の害や禁酒の徳をどれほど繰り返しても、なかなか耳に入りません。いよいよその害が身に及んで病気にでもなると、初めてなるほどという思いが起こります。 また、放蕩にふけっている者も同じで、のめり込んでいるあいだは、『論語』をもってしても『法華経』をもってしても、なかなか浮かび上がれません。説けば説くほど自分には関係のないことのように思い、「君の言うことは一つ一つもっともだが、僕の場合は少し違う。君が心配するほどのことはないよ」というような考えで、ますます深みにはまるのを、私たちはしばしば見ます。ところがこの人も、相手に裏切られるか、自分で飽きてくるかすると、初めて目が覚めます。かつて友人が言ったことがまさに自分のことであった、『聖書』のあの章あの節は自分ひとりのために書かれたものだと感じられてくるのです。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』内篇・修身・我を攻むるの益に感ず我が過ちを攻むる者は、未だ必ずしも皆な過ち無きの人ならざるなり。苟しくも過ち無きの人の我を攻むるを求めば、則ち終身過ちを聞くを得ざらん。我は當に其の我を攻むるの益に感ずるのみ。彼に過ち有るか過ち無きか、何ぞ計るに暇あらんや。
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自警録・第二十章 忠告の取捨・正しき時に正しき言を放つは賢人なお他人に忠告するについては、一言したいことがある。たびたび言うとおり聖人君子でないわれわれ凡人に訓戒を与えることははなはだむずかしいし、また与えたところが釈迦、孔子、耶蘇の訓戒でさえもいちいち反応ないのに、われわれの訓戒が功を奏することはおぼつかなく思う。 友人に忠告することは常にあることで、ある意味においては世にありすぎることである。こんなことまで忠告するにおよばんのにと思うことがままある。 しかし忠告する値があることについても、もっとも注意すべきは時を選ぶ一条である。友人の心の畑が耕されているや否や、英国の諺に賢人とは正しき時に、正しき言を放つ者なりとあるが、実にそのとおりで、どんな正しい言でも時ならぬ時に放てば愚人の言にも劣る。おそらく多くの人はみな経験があるだろう。 まじめになって、友人を諫めたためにあるいは友誼を破り、あるいは他人の心に反抗心を惹き起こさせて、いっそう彼を堕落せしむるの機縁となることがある。時ならぬ忠告は有害ならぬまでも、無益におわる場合多ければ、葬式に祝詞を呈し、めでたき折に泣き言を述ぶるに等しきことは常識に任せて謹みたい。 僕のたびたび引用する『菜根譚』に、 「人の悪を攻むるは太だ厳なるなかれ、その受くるに堪うるを思うを要す。人に教うるに善を以てするは、高きに過ぐるなかれ、それをして従うべからしむべし」 とある。
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『斉家論』上然れども推し出だし儒者とはいはれまじ。又世間に沙汰なき人にも出会うて見れば、経書はいふに及ばず、詩作文章達者なる能き学者あり。又儒者ならねども、少し心がけある人には、汝ぐらゐの学者は町並にも有るべし。其の中にて無縁の講釈すると、口広き事はいはれまじ。夫をもかまはず書付を出だされなば、聴く者もあるべけれど、一度聞きては、素読同前の講釈なりといひ、又口の悪しき者は、あの学問にて講釈するは、笑ふにたらずと譏るべし。たとひ十日廿日入れかはり聴衆ありとも、つづくまじ。其の時に至り、しまはんよりは、今七八年も学問し出でられなば、本望もとげ、恥を受くることも少なからんといはれし人も、過ぎ去りむかしがたりになりぬ。或人のいへるごとく、
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『呻吟語』内篇・應務・忠告して善く之を道く今子弟の父兄の責を受くるや、尚ほ堪へざる所有り。而るに況んや他人をや。孔子曰く、「忠告して善く之を道き、不可なれば則ち止む」と。此の語は交はりを全うするに止まらず、亦た以て氣を養ふ可し。
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論語・顔淵篇子貢、友を問う。子曰く、「忠告して善く之を道き、不可なれば則ち止む。自ら辱めらるること毋かれ。」
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易経・夬卦勝たずして往くは、咎なり。莫夜に戎有るも、中道を得ればなり。君子夬夬たるは、終に咎无きなり。其の行くこと次且たるは、位当らざればなり。言を聞きて信ぜざるは、聡明らかならざればなり。中行なれば咎无しとは、中未だ光いならざるなり。号ぶこと无きの凶は、終に長かるべからざるなり。