自警録 / 第十九章 言葉の心・心から湧き出たものが真の言葉
用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に充ち溢れて言葉となる」とあるが、心から湧き出たものがまことの言葉である。 言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲巧妙なる言葉の下に骨を銷することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たっぷりの文句や人を陥れる言い振り、人に無礼する語を用いることはなはだ慎むべきことである。僕自身が田舎生まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。
書き下し
用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に充ち溢れて言葉となる」とあるが、心から湧き出たものがまことの言葉である。 言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲巧妙なる言葉の下に骨を銷することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たっぷりの文句や人を陥れる言い振り、人に無礼する語を用いることはなはだ慎むべきことである。僕自身が田舎生まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。
現代語訳
用言などは、意味さえ通じればどうでもよいようなものですが、悪意をもって使えば、どんな善い言葉、美しい語も、不愉快な感じを与えます。ですから、言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよという前提がなくてはなりません。『聖書』に「心に満ち溢れることが言葉となる」とありますが、心から湧き出たものが、まことの言葉です。 「言葉の声に心が現れて、やさしい人の底の深さが知られる」 私は先に、同一の事実を別の言葉で語ることができると言いましたが、それと同じように、同一の言葉をもって正反対の心を表すこともできます。婉曲で巧妙な言葉の下に、骨を砕く刃を隠すこともできます。言葉などどうでもよいというのは、心に比べればごく軽少だという意味ではなく、心そのものを無視して言葉はどうでもよいと言い、嫌味たっぷりの文句や、人を陥れる言い振り、人に無礼をする語を使うことは、はなはだ慎むべきことです。私自身は田舎生まれで、はなはだ不謹慎な言葉を使うことが多いので、いっそうこのことを感じ、また世の中には私のような人もいるだろうと思い、所感の一端を述べたのです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
-
自警録・第十九章 言葉の心・名は命名者の心を表わす(1)『荘子』に「名は実の賓なり」とあるごとく、実は主にして名は客である。言葉も同じく考えの賓、思想の客なりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉凶ありとて、ことに近ごろ姓名判断など盛んに流行る。しかし名と実とが相伴わねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若くはない。 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老子の言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語の用は思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が足る。遊ばせ言葉は暇つぶしでかつ煩わしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も自ら物や思想の実を現すだけで用の足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに止まらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。古人の曰く「言者身之文也」と。日本の諺にも「言葉は立居をあらわす」というが、これはただ品や育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。 僕の知れる老人に滑稽趣味に饒なものがあった。封建時代には従者や出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者を冷しながら、
-
自警録・第十九章 言葉の心・かくの如き曲解も起こるまた僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影に最敬礼して登壇し、今日の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分が爾く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯れてくすぐる時は「叔父さんいやだ」といいながらも、止めればまたからかってもらいたい風をするごとく、真にいやなのであるか否かわからぬのと同じである云々、と述べた。 すると傍聴者のなかに、痛くこの演説が癪に触った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚らず猥褻なる語を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。 講演者はいかなる点が猥褻であるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻の歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻と思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自らしばしば唄った甚句か端唄を思い出したのである。いかなることでも揚足をとり曲解することは容易なる業で、口の先は偉い力を有するものである。
-
『慎思録』巻之四言は心の声なり。外に発して聞くべし。心は身の主なり。中に在りて見るべからず。故に人に接する時、人は唯だ吾が言を聞きて、吾が心を見ず。然らば則ち外に発する者は、只だ言のみ。言豈に慎まざるべけんや。
-
自警録・第十九章 言葉の心・不快の感を与うる言語(2)「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、明瞭にその言うところの意味がわからなかった」 といい、進んで滔々としてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は「やっつけた」と大いに誇張していい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだ陋かつ小であって、先方を困らす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来訪を受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を訪ねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかに某を重大視し、某は彼に対して無頓着なりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始終起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。
-
自警録・第二十章 忠告の取捨・教訓を責道具に使うなかれこういう僕もこれより言わんと欲することについて、自ら反対の例となるの恐れなきにしも非ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。 老人らが懇々と吾人に身の治め方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維新前の話をしているわいと、馬耳東風に聞き流すことが多い。また吾人の真情や実況を一通り心得ている友人が懇切に我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ俺の腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸底で笑いたくなることもある。 またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽の金言と称せらるる教訓に触れても、甘いことをいっている、この訓は某に聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心地することがままある。 ゆえに、少しく油断すると聖人君子の言葉を用いて他人を責むる道具とする懼がある。さればこそ、他人を偽君子と呼び、不忠不義と罵り、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を罪するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。 こういうふうに他人が吾人のために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先賢が血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境涯に達しない、すなわち自己の非を悟らず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が吾人の境遇を充分知らぬゆえである。