自警録 / 第十九章 言葉の心・邦人間に行わるる嘘の原因
そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘をつくというが、悪意をもって嘘を言わなくとも、事実に違ったことを吐く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠くためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて嘘をいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪廓が円縁であればただちに円いと言い、屈曲さえあれば円いというも、その円というのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真円と解するゆえに円ならぬものを円と嘘をいうとする。 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に混じやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が曇れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。 これに反して鄭重なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜の至り」などあり、西洋でも書簡文には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、 「貴下の柔順なる忠僕」 と直訳すると、邦文の「頓首」、「再拝」よりひどく聞こゆれども、この句の源はさほど卑屈の意ではなく、 「貴下に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」 の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が夥しいから、人の葬式に悔みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正直な人は惑わされる。古人の歎ける一首に曰わく、 偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉はうれしからまし
新字:そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘をつくというが、悪意をもって嘘を言わなくとも、事実に違ったことを吐く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠くためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて嘘をいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪廓が円縁であればただちに円いと言い、屈曲さえあれば円いというも、その円というのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真円と解するゆえに円ならぬものを円と嘘をいうとする。 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に混じやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が曇れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。 これに反して鄭重なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜の至り」などあり、西洋でも書簡文には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、 「貴下の柔順なる忠僕」 と直訳すると、邦文の「頓首」、「再拝」よりひどく聞こゆれども、この句の源はさほど卑屈の意ではなく、 「貴下に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」 の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が夥しいから、人の葬式に悔みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正直な人は惑わされる。古人の嘆ける一首に曰わく、 偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉はうれしからまし
書き下し
そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘をつくというが、悪意をもって嘘を言わなくとも、事実に違ったことを吐く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠くためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて嘘をいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪廓が円縁であればただちに円いと言い、屈曲さえあれば円いというも、その円というのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真円と解するゆえに円ならぬものを円と嘘をいうとする。 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に混じやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が曇れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。 これに反して鄭重なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜の至り」などあり、西洋でも書簡文には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、 「貴下の柔順なる忠僕」 と直訳すると、邦文の「頓首」、「再拝」よりひどく聞こゆれども、この句の源はさほど卑屈の意ではなく、 「貴下に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」 の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が夥しいから、人の葬式に悔みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正直な人は惑わされる。古人の歎ける一首に曰わく、 偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉はうれしからまし
現代語訳
そもそも外国人が日本人を批評して、日本人はとかく嘘をつくと言いますが、悪意をもって嘘を言わなくとも、事実と違ったことを口にする点では、おそらく日本人は西洋人よりはるかに多いと思います。その事実に違うというのは、主に二つの原因から来ます。一つは、普通教育がまだ十分でないために、使う言葉に精確さを欠くことです。たとえば角ばったものなら、すべて四角と言います。これを聞いた外国人は本当に四角なものかと思うと、何ぞ図らん、三角や六角や八角のものがある。言う人は、あえて嘘を言う考えはありません。何角だかは考えず、ただ角があるから四角と言っているのです。輪郭が丸みを帯びていれば、すぐ円いと言い、曲がりさえあれば円いと言いますが、その円いというのは円形の意味ではありません。ところがこれを聞く外国人は、これを真円と解して、円でないものを円と言う、嘘をつく、と受け取ります。 もう一つの原因は、前に述べた主観的な要素が、西洋人よりも日本人にはなはだ強いことです。つまり、感情が事実に混じりやすい。そのため事実を冷静に客観的に述べず、嫌味を付け加えたり、喜ぶ気持ちを含ませたりします。天気が曇れば、曇ったと言うだけで事実を述べるに足りるのに、「曇ってきやがった」というような言葉を使うために、曇るのを望んでいる人でも、これを聞いて不愉快な感じを起こします。 これに反して、丁寧な言い方の中に、心にもないことを含ませることがたくさんあります。 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜の至り」などとあり、西洋でも書簡文の終わりに Your obedient servant と記す礼法があります。これを 「あなたの従順な忠実なしもべ」 と直訳すると、日本語の「頓首」「再拝」よりひどく聞こえますが、この句の源はそれほど卑屈な意味ではなく、 「あなたに serve する、すなわちお役に立つことがあれば喜んで従う」 という厚意を述べた言葉です。そもそも日本語には敬語が非常に多いので、人の葬式に悔やみに行っても、心の中の半分も思わないことまで述べます。少し正直な人は惑わされます。古人が嘆いた一首に言います。 「偽りのない世であったなら、人の言葉は、どれほど嬉しく聞こえるだろうか」
解説

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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
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