武士道 / 第七章 至誠信實・ウソは虚言にあらず
然りと雖、氏は虛言なる語を譯するの重きに過ぎ、『フオールスフード』なる英語を用ゐたるの點に於て大に誤謬あり。日本語にてウソとは、マコトならず、ホンタウならざるを指して云ふものにして、ローウエルは、ウオルヅウオルスを評して、彼は眞理と事實とを區別する能はずと云ひたるが、此點に於て、日本人は〓するに詩仙ウオルヅウオルスに酷似するものなり。試みに多少の禮文ある日本人、又たは米國人に向ひ、汝は予を厭ふやと云ひ又た汝は腹痛するかと問はゞ、彼は衷心快からざるも、直ちに『子、甚だ君を愛す』、又たは『多謝す、予は快し』等の虛言を以て答とせん。然るに武士は禮の故に誠を犠牲とするを以て虚禮となし甘言人を欺くものなりとして大いに之を賤めたり予は今爰に武士道の有せる誠の觀念を說明するより、延いて日本人の商業道德に關し、多少の辯を費すも亦た敢て失當の擧にあらざるべきを信ず。
新字:然りと雖、氏は虚言なる語を訳するの重きに過ぎ、『フオールスフード』なる英語を用ゐたるの点に於て大に誤謬あり。日本語にてウソとは、マコトならず、ホンタウならざるを指して云ふものにして、ローウエルは、ウオルヅウオルスを評して、彼は真理と事実とを区別する能はずと云ひたるが、此点に於て、日本人は〓するに詩仙ウオルヅウオルスに酷似するものなり。試みに多少の礼文ある日本人、又たは米国人に向ひ、汝は予を厭ふやと云ひ又た汝は腹痛するかと問はゞ、彼は衷心快からざるも、直ちに『子、甚だ君を愛す』、又たは『多謝す、予は快し』等の虚言を以て答とせん。然るに武士は礼の故に誠を犠牲とするを以て虚礼となし甘言人を欺くものなりとして大いに之を賤めたり予は今爰に武士道の有せる誠の観念を説明するより、延いて日本人の商業道徳に関し、多少の弁を費すも亦た敢て失当の挙にあらざるべきを信ず。
書き下し
然りと雖も、氏は虚言なる語を訳するの重きに過ぎ、『フォールスフード』なる英語を用ゐたるの点に於て大に誤謬あり。日本語にてウソとは、マコトならず、ホンタウならざるを指して云ふものにして、ローウェルは、ワーズワースを評して、彼は真理と事実とを区別する能はずと云ひたるが、此点に於て、日本人は(要)するに詩仙ワーズワースに酷似するものなり。試みに多少の礼文ある日本人、又たは米国人に向ひ、汝は予を厭ふやと云ひ、又た汝は腹痛するかと問はば、彼は衷心快からざるも、直ちに『予、甚だ君を愛す』、又たは『多謝す、予は快し』等の虚言を以て答とせん。然るに武士は礼の故に誠を犠牲とするを以て虚礼となし、甘言人を欺くものなりとして大いに之を賤めたり。予は今ここに武士道の有せる誠の観念を説明するより、延いて日本人の商業道徳に関し、多少の弁を費すも亦た敢て失当の挙にあらざるべきを信ず。
現代語訳
そうではあるが、その人は「うそ」という語を訳すのに重すぎる言葉を当て、「フォールスフッド(falsehood、虚偽)」という英語を用いた点で大きな誤りがある。日本語でウソとは、まことでないこと、本当でないことを指して言うものである。ローウェル(米国の詩人・批評家)はワーズワース(英国の詩人)を評して、彼は真理と事実とを区別することができないと言ったが、この点で日本人は、(要)するに詩人ワーズワースによく似ているのである。試みに、いくらか礼儀をわきまえた日本人、あるいはアメリカ人に向かって、「君は私を嫌いか」と言い、また「君は腹が痛むのか」と尋ねれば、彼は内心おもしろくなくても、すぐに「いや、君がとても好きだ」とか「ありがとう、私は元気だ」といった偽りの言葉で答えるだろう。しかし武士は、礼のために誠を犠牲にすることを虚礼とし、甘い言葉で人を欺くものだとして大いに卑しんだ。私はいま、武士道のもっていた誠の観念を説明するところから進んで、日本人の商業道徳について多少の言葉を費やすことも、あえて不当なことではないと信じる。
解説
この章句が説くこと
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