自警録 / 第十九章 言葉の心・不快の感を与うる言語(1)
我が邦には西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。そのなかに「何々しやあがった」というのは一つである。また「何々をしてやった」というも一例である。まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら「上った」というのでむしろ鄭重な言葉と思うであろう。しかし日本人間にありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。たとえば、 「何某は死にやあがった」 「誰は結婚しやあがった」 「勉強しやあがった」 「昇進しやあがった」 といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。これはおたがいに常に耳にすることである。僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に不愉快に思い、また人を陥るる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想を懐く。 また「シテヤッタ」という言葉が広く行われる。むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少し癪に障ったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手も凹んだようだったと。僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士を訪ねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士は曰く、
書き下し
我が邦には西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。そのなかに「何々しやあがった」というのは一つである。また「何々をしてやった」というも一例である。まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら「上った」というのでむしろ鄭重な言葉と思うであろう。しかし日本人間にありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。たとえば、 「何某は死にやあがった」 「誰は結婚しやあがった」 「勉強しやあがった」 「昇進しやあがった」 といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。これはおたがいに常に耳にすることである。僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に不愉快に思い、また人を陥るる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想を懐く。 また「シテヤッタ」という言葉が広く行われる。むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少し癪に障ったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手も凹んだようだったと。僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士を訪ねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士は曰く、
現代語訳
わが国には、西洋語では言いにくい便利な言葉があります。その中で「何々しやあがった」というのはひとつです。また「何々をしてやった」というのも一例です。まず前者から述べます。私はこの言葉の起こりを知りませんが、外国人が見たら、「上った」というのでむしろ丁寧な言葉と思うでしょう。しかし日本人の間では、この一言でどんな善事をも悪く変えることができます。たとえば、 「何某は死にやあがった」 「誰は結婚しやあがった」 「勉強しやあがった」 「昇進しやあがった」 などと言い、たとえ善いことであっても、これに右の一句を加えれば、たちまち悪く変わります。これは誰もが常に耳にすることです。私はこのような言葉を聞くと、いつも不愉快に思い、また人を陥れる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉にはいつも気味の悪い感想を抱きます。 また「してやった」という言葉も広く行われます。もちろん善い意味に使うこともありますが、多くは悪意に使います。私はこれを聞くたびに、一種の不愉快を感じます。かつてドイツに留学していたころ、同じく留学していた同胞のひとりが、次のようなことを話しました。自分が何々博士を訪ねて、いろいろ議論したうち、少し癪に障ることがあったので、こうこう言ってやったところ、相手もだいぶ凹んだようだった、と。私はこれを聞いて、思いきったことを言ったものだ、相手の人もさだめしだいぶ参っただろうと思いました。その後、同じ博士を訪ねた折に、それとなく、こうこういう議論についてはどうお考えですか、と、いわゆるやっつけた人の説を繰り返したところ、博士は言いました。
解説

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自警録・第十九章 言葉の心・不快の感を与うる言語(2)「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、明瞭にその言うところの意味がわからなかった」 といい、進んで滔々としてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は「やっつけた」と大いに誇張していい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだ陋かつ小であって、先方を困らす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来訪を受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を訪ねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかに某を重大視し、某は彼に対して無頓着なりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始終起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。
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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
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自警録・第十九章 言葉の心・かくの如き曲解も起こるまた僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影に最敬礼して登壇し、今日の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分が爾く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯れてくすぐる時は「叔父さんいやだ」といいながらも、止めればまたからかってもらいたい風をするごとく、真にいやなのであるか否かわからぬのと同じである云々、と述べた。 すると傍聴者のなかに、痛くこの演説が癪に触った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚らず猥褻なる語を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。 講演者はいかなる点が猥褻であるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻の歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻と思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自らしばしば唄った甚句か端唄を思い出したのである。いかなることでも揚足をとり曲解することは容易なる業で、口の先は偉い力を有するものである。
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自警録・第十九章 言葉の心・邦人間に行わるる嘘の原因そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘をつくというが、悪意をもって嘘を言わなくとも、事実に違ったことを吐く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠くためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて嘘をいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪廓が円縁であればただちに円いと言い、屈曲さえあれば円いというも、その円というのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真円と解するゆえに円ならぬものを円と嘘をいうとする。 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に混じやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が曇れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。 これに反して鄭重なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜の至り」などあり、西洋でも書簡文には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、 「貴下の柔順なる忠僕」 と直訳すると、邦文の「頓首」、「再拝」よりひどく聞こゆれども、この句の源はさほど卑屈の意ではなく、 「貴下に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」 の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が夥しいから、人の葬式に悔みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正直な人は惑わされる。古人の歎ける一首に曰わく、 偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉はうれしからまし
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自警録・第十九章 言葉の心・心から湧き出たものが真の言葉用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に充ち溢れて言葉となる」とあるが、心から湧き出たものがまことの言葉である。 言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲巧妙なる言葉の下に骨を銷することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たっぷりの文句や人を陥れる言い振り、人に無礼する語を用いることはなはだ慎むべきことである。僕自身が田舎生まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。
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自警録・第一章 男一匹・女なる言葉に含まれた道徳的意味(1)この人間のうちには男もあれば女もある。しかして「女」なる言葉はその用うる場合により、「人」の場合と同じく、善悪両様の意味を別々に含ませている。むろん男のことを「女らしい」というときは、十に八、九まで誹謗する意旨であるが、しかし女自身に使用するときでも、おもしろからぬ意味を諷することはしばしば見るところである。 たとえば、 「女子と小人は養い難し」 という場合、単に女子という文字だけにてはさらに善悪の意を含んでおらぬが、小人という語と結びあわせると、女子を卑下する心持が現れている。ちょっと普通行わるる諺を見ても、 「どうせ女の事だもの」 「家の乱は女から」 「七人の子は生すとも女に心を許すな」 「大蛇を見るとも女人を見るべからず」 などと女に関する悪口がたくさんある。畢竟いかに男子が自己の愚より婦人に迷ったかを自白するに過ぎぬ。ことに漢字では女の字を偏または旁に含めるものは、むろん善意を含めることなきにあらざるも、多くの場合むしろ悪意を含ましている。 たとえば女を三字集めた姦、両男の間に女を揷んだ嬲(もっともこれは女のほうより左右にある男のほうが罪あるに相違ない)、奴(やっこ)、妄(みだる)、奸(みだす)、妨(さまたげる)、妖(わざわい)、妬(そねむ)、婪(むさぼる)、嫉(ねたむ)のごときは悪い意味である。その他普通の用語にしても女といえばなんとなく卑めるがごとき印象を受ける。わが輩は常に女といえばただちに母ということを頭脳に思い出すから、いちがいに女という文字を嘲笑的に用うる人多きを見て、不愉快に感ずる。しかし女を卑下する思想は必ずしも日本のみでなく、またシナのみに限らぬ。西洋においても多少この傾向の存在を否定することはできぬ。