武士道 / 第七章 至誠信實・虚言を吐くと礼を失すると
固より神明に誓ひ、刀に盟ふの事ありたりと雖、未だ彼の歐米に於けるが如く其起證の流れて妄語となり、又た神を侮るの放言となりたるの例を見ず。時としては又た實に血誓血判をなすことありしと雖、此行爲に關しては讀者は予の說明を俟たずして、試みにゲーテの『フアウスト』に、血は異樣の液體なりと云ひ、血を以て誓ふを讀まば、即ち自から釋然として明かなるものあらん。近時米國一文士の說を爲すことあり。曰く普通の日本人に問ふに、虛言を吐くと、禮を失すると、孰か可なるやを以てせば彼は言下に答へて、『虛言を吐く』を可とすと云ふべしと。盖し此說の言責者たる、ビリー博士は是非相半ばせるものと云ふべし。啻に尋常一般の日本人のみならず、又た士人と雖、尙且つ此れと等しき答をなすなるべし。
新字:固より神明に誓ひ、刀に盟ふの事ありたりと雖、未だ彼の欧米に於けるが如く其起証の流れて妄語となり、又た神を侮るの放言となりたるの例を見ず。時としては又た実に血誓血判をなすことありしと雖、此行為に関しては読者は予の説明を俟たずして、試みにゲーテの『フアウスト』に、血は異様の液体なりと云ひ、血を以て誓ふを読まば、即ち自から釈然として明かなるものあらん。近時米国一文士の説を為すことあり。曰く普通の日本人に問ふに、虚言を吐くと、礼を失すると、孰か可なるやを以てせば彼は言下に答へて、『虚言を吐く』を可とすと云ふべしと。盖し此説の言責者たる、ビリー博士は是非相半ばせるものと云ふべし。啻に尋常一般の日本人のみならず、又た士人と雖、尚且つ此れと等しき答をなすなるべし。
書き下し
固より神明に誓ひ、刀に盟ふの事ありたりと雖、未だ彼の欧米に於けるが如く、其起証の流れて妄語となり、又た神を侮るの放言となりたるの例を見ず。時としては又た実に血誓血判をなすことありしと雖、此行為に関しては、読者は予の説明を俟たずして、試みにゲーテの『ファウスト』に、血は異様の液体なりと云ひ、血を以て誓ふを読まば、即ち自から釈然として明かなるものあらん。近時、米国一文士の説を為すことあり。曰く、普通の日本人に問ふに、虚言を吐くと、礼を失すると、いづれか可なるやを以てせば、彼は言下に答へて『虚言を吐く』を可とすと云ふべしと。けだし此説の言責者たるピーリー博士は、是非相半ばせるものと云ふべし。ただに尋常一般の日本人のみならず、又た士人と雖、なお且つ此れと等しき答をなすなるべし。
現代語訳
もとより神に誓い、刀に誓うことはありましたが、欧米のように、その誓いが流れて出まかせになり、また神を侮る放言になった例は見られません。ときには実際に血で誓い血判を押すこともありましたが、この行為については、読者は私の説明を待たずに、ゲーテの『ファウスト』に、血は特別な液体であると言って血で誓う場面を読めば、おのずと納得できるでしょう。近ごろアメリカのある文人がこう説きました。普通の日本人に、嘘をつくのと礼を失するのとどちらがよいかと問えば、彼は即座に、嘘をつくほうがよい、と答えるだろう、と。思うにこの説の責任者であるピーリー博士は、当たっている面と外れている面が半々でしょう。普通の日本人だけでなく、武士であってもなお、これと同じ答えをするでしょう。
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