自警録 / 第十九章 言葉の心・かくの如き曲解も起こる
また僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影に最敬礼して登壇し、今日の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分が爾く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯れてくすぐる時は「叔父さんいやだ」といいながらも、止めればまたからかってもらいたい風をするごとく、真にいやなのであるか否かわからぬのと同じである云々、と述べた。 すると傍聴者のなかに、痛くこの演説が癪に触った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚らず猥褻なる語を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。 講演者はいかなる点が猥褻であるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻の歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻と思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自らしばしば唄った甚句か端唄を思い出したのである。いかなることでも揚足をとり曲解することは容易なる業で、口の先は偉い力を有するものである。
書き下し
また僕の知人にてある所で演説したことがある。始むるにあたりてあたかも前面に掲げてあったご真影に最敬礼して登壇し、今日の教育はややもすれば技術的教育に流れ、人格教育は怠りがちである、ゆえになにごとに対しても「イエス」と「ノー」の区別さえもできぬものがある。自分が爾く思わぬことでありながら、思っているようの返事をしたり、あるいは爾く思いながらも思わぬごとき言葉を使ったりする、あたかも子供に戯れてくすぐる時は「叔父さんいやだ」といいながらも、止めればまたからかってもらいたい風をするごとく、真にいやなのであるか否かわからぬのと同じである云々、と述べた。 すると傍聴者のなかに、痛くこの演説が癪に触った者があって、講演者を罪せんとたくらみ、彼は御真影の前をも憚らず猥褻なる語を用いたと称して問題を惹き起こしたことがある。 講演者はいかなる点が猥褻であるかとんと理解しえなかったが、よくよくその事情を聞くと「いやだいやだ」で始まる猥褻の歌があるそうである。講演者はさらにその歌のあることさえも知らなかったが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻と思われたのであったという。同一なる言語を使用しても言う人は子供の頑是なきところを述べんとの心なるに、聞く人はおそらく自らしばしば唄った甚句か端唄を思い出したのである。いかなることでも揚足をとり曲解することは容易なる業で、口の先は偉い力を有するものである。
現代語訳
また、私の知人がある所で演説をしたことがあります。始めるにあたり、前面に掲げてあった御真影に最敬礼して登壇し、今日の教育はともすれば技術的な教育に流れ、人格教育は怠りがちである、そのために何事についても「イエス」と「ノー」の区別さえできない者がいる。自分がそう思わないことなのに、思っているような返事をしたり、あるいはそう思いながら、思わないような言葉を使ったりする。ちょうど子供をふざけてくすぐるとき、「おじさん、いやだ」と言いながら、やめればまたからかってほしそうにするように、本当にいやなのかどうかわからないのと同じである、などと述べました。 すると、聴衆の中にこの演説がひどく癪に触った者がいて、講演者を罪に陥れようとたくらみ、彼は御真影の前をも憚らず、猥褻な言葉を使ったと言い立て、問題を引き起こしたことがあります。 講演者は、どの点が猥褻なのか、さっぱり理解できませんでしたが、よくよく事情を聞くと、「いやだいやだ」で始まる猥褻な歌があるそうです。講演者はその歌があることすら知らなかったのですが、演説中にいやだいやだという句を使ったために、猥褻と思われたのでした。同じ言葉を使っても、言う人は子供の無邪気なところを述べようという心なのに、聞く人はおそらく自分がしばしば歌った甚句か端唄を思い出したのでしょう。どんなことでも、揚げ足を取り、曲解するのは容易な仕事で、口先というものは偉い力を持っています。
解説

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自警録・第十九章 言葉の心・心から湧き出たものが真の言葉用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に充ち溢れて言葉となる」とあるが、心から湧き出たものがまことの言葉である。 言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲巧妙なる言葉の下に骨を銷することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たっぷりの文句や人を陥れる言い振り、人に無礼する語を用いることはなはだ慎むべきことである。僕自身が田舎生まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。
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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
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自警録・第十九章 言葉の心・不快の感を与うる言語(2)「それに類したようなことを、この前に君の国の人がいっていたことがあった。なにぶん言葉が不完全なので、明瞭にその言うところの意味がわからなかった」 といい、進んで滔々としてその説の正当ならぬことを説かれたことがある。つまり同一の事柄を、一人は「やっつけた」と大いに誇張していい、一人はそんなことははなはだ軽く、やっつけられたともなんとも思わぬことがしばしばある。かくのごとき場合にはやっつけたと思う心ははなはだ陋かつ小であって、先方を困らす動機を示すのみで、はたして自分の言が有効であったかを保証するものでない。 近ごろ僕の知人にして雑誌記者の来訪を受け、なんかの質問を受けたことがある。しかるにその質問があまりくだらなかったので取り合わなかった。数日ならずしてなにかの雑誌に自分の名が掲げてあったので、はてな、そんな雑誌に投書したことはなかったがと思い、試みにその記事をみると、某氏を訪ねて大いに議論を戦わしたるに、彼は答うるに言葉なく、ギャフンと参ったと書いてあり、始めてハハアあの時のことであったかと思ったという。この場合においても記者がいかに某を重大視し、某は彼に対して無頓着なりしかを示すだけで、同じことをまったく別な態度で見るとかくのごときゆきちがいが始終起こる。こういう例をあげきたれば僕自身にも少なからざる経験がある。おそらくは同様の経験を持たぬ人はあるまい。
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自警録・第十九章 言葉の心・同じ事が弁解にもなり有罪にもなる僕の知人に思いがけなき災難にあって裁判所に呼び出された人がある。彼は日ならずして無罪を宣告せられたが、逮捕の理由は彼がある嫌疑者に数千の金を与えたというにあって、裁判官が、 「なにゆえに貴様はかかる大金を彼に与えたるか」 の尋問に対し、彼は、 「彼が嫌疑がましいことをなすにつけ、いついかなる運命に陥るかも知れぬ、万一そうなると自分の心残りとすることは一人の老母の身の上である、老母が安全に生活する心配がなければ、私は繋獄の身となるも悔ゆることがない、ついては若干の金を得て老母の養老金にしたいと頼まれ、わが輩一片の義侠、これを否むに忍びず、彼のために出金した」 と答えたが裁判官はこの事実をもって彼を共謀者なりとみなした。すなわち僕の友人は答うるに事実のままをもってしたが、裁判官はこれをそのままに受けないで、憐れであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいと告げた。友人はこれを聞き、カッとしてわが胸中に湧きいずる同情の海に比ぶれば二千、三千の金はその一滴にだも値せずと絶叫したと聞いた。金を与えたという事実は同一なるが、これを叙するに裁判官の用いた言葉と友人の用いたる言葉とは非常に違っている。してこの差の起こるゆえんはまったく心の置き所が異なるからである。
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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(2)こういう例をあげきたれば、何人にもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露を出す必要はない、彼は「戊申詔書」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式の人なりと讃める人もある。 また昔時シナの妃が庭園を散歩し、桃の熟したのを食い、味の余りに美なりしに感じ、独りこれを食うに忍びず、食い残しの半分を皇帝に捧げ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛いよいよ厚きを加えたが、その後妃の寵衰えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件によりて罰せられたという。寸分異ならぬ同一事実のものでも、見ようによりては褒めることもできれば、誹しることもできる。賞することも罰することもでき、殺すことも活かすこともできる。同じことも見聞する人により霄壤の差を生ずる。
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自警録・第十九章 言葉の心・不快の感を与うる言語(1)我が邦には西洋語にては言いにくき便利なる言葉がある。そのなかに「何々しやあがった」というのは一つである。また「何々をしてやった」というも一例である。まず前者について一言せんに、僕はこの言葉の起こりを知らぬが、外国人が見たら「上った」というのでむしろ鄭重な言葉と思うであろう。しかし日本人間にありては、この一言でいかなる善事をも悪化しうる。たとえば、 「何某は死にやあがった」 「誰は結婚しやあがった」 「勉強しやあがった」 「昇進しやあがった」 といい、たとえ善事であっても、これに対して右の一句を加うればたちまち悪化する。これはおたがいに常に耳にすることである。僕はかくのごとき言葉を聞くと、常に不愉快に思い、また人を陥るる手段をめぐらしているなと思う気がして、この言葉に対しては常に気味が悪い感想を懐く。 また「シテヤッタ」という言葉が広く行われる。むろん善い意味に用うることもあるが多くは悪意に用うる。僕はこれを聞くごとに一種の不愉快を感ずる。かつてドイツに留学していたころ、やはり同じく留学していた同胞の一人が次のごときことを話した。自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少し癪に障ったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手も凹んだようだったと。僕はこれを聞き思いきったことを言ったものだ、相手の人も定めしだいぶまいったであろうと思い、そののち同博士を訪ねた折、それとなくこうこういう議論につきいかにお考えであるかと、いわゆるやっつけた人の説を繰り返せるに、博士は曰く、