自警録 / 第十八章 知らぬ恩人に対する感謝・入学試験中、俥を待たした不思議の婦人(2)
「今試験をしておりますが、昨日自宅で眩がしましたから、今日ももしやそんなことでもないかと思って、ここに待っております。まさかの時には連れて帰るつもりで、俥を頼んで参りました。それに今朝飲む薬も、いそいでいて忘れましたから」 といいながらしきりに懐の中に手を入れて、薬を出しそうにするから、 「私がその薬を飲ましてあげましょう」 というたが、 「これはご飯の後で、すぐ頂くのですから、もう遅くていけますまいし、またもしや私がここに参っていることでも知れると、試験のためにようございません」 「それじゃ、名はなんといいますか」 「…………」 「何番ですか」 「番号もハッキリしません、……英法です……もしや知れると、恥ずかしがりますから……」 「ここの試験では、毎年三、四名ぐらい眩する者ができたり、その他いろいろの病人が起こるので、監督の先生たちは、そういうことに始終気をつけていられるし、また係りのお医者もあって、そんなことがあると、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうがゆきとどくだろうと思いますから、心配なさらずに、お帰りになっても大丈夫でしょう。しかし念のために番号だけわかったら知らせてお置きなさい」 「…………」 「イエ、御当人にわからないようにして、見はりをつけてあげますから、当人にはなにも知らないように、お医者さまと監督の先生に、ことさら注意をするようにお頼みしておきますから、安心なさい」 といったので、始めて何部の何番ということを告げたから、さっそくその教室に行って、入ってみると、なるほどその顔形がいかにも件の婦人によく似た青年で、まさしく両者の関係が親子であることが判然した。彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念ない態であった。僕は係員の先生やお医者さんにもことさら注意を頼んで、その教場を去って再び玄関に来たときは、母なる人の姿も俥の影も跡が見えなかった。
書き下し
「今試験をしておりますが、昨日自宅で眩がしましたから、今日ももしやそんなことでもないかと思って、ここに待っております。まさかの時には連れて帰るつもりで、俥を頼んで参りました。それに今朝飲む薬も、いそいでいて忘れましたから」 といいながらしきりに懐の中に手を入れて、薬を出しそうにするから、 「私がその薬を飲ましてあげましょう」 というたが、 「これはご飯の後で、すぐ頂くのですから、もう遅くていけますまいし、またもしや私がここに参っていることでも知れると、試験のためにようございません」 「それじゃ、名はなんといいますか」 「…………」 「何番ですか」 「番号もハッキリしません、……英法です……もしや知れると、恥ずかしがりますから……」 「ここの試験では、毎年三、四名ぐらい眩する者ができたり、その他いろいろの病人が起こるので、監督の先生たちは、そういうことに始終気をつけていられるし、また係りのお医者もあって、そんなことがあると、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうがゆきとどくだろうと思いますから、心配なさらずに、お帰りになっても大丈夫でしょう。しかし念のために番号だけわかったら知らせてお置きなさい」 「…………」 「イエ、御当人にわからないようにして、見はりをつけてあげますから、当人にはなにも知らないように、お医者さまと監督の先生に、ことさら注意をするようにお頼みしておきますから、安心なさい」 といったので、始めて何部の何番ということを告げたから、さっそくその教室に行って、入ってみると、なるほどその顔形がいかにも件の婦人によく似た青年で、まさしく両者の関係が親子であることが判然した。彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念ない態であった。僕は係員の先生やお医者さんにもことさら注意を頼んで、その教場を去って再び玄関に来たときは、母なる人の姿も俥の影も跡が見えなかった。
現代語訳
「今、試験を受けておりますが、昨日、自宅で目まいがしましたので、今日もそんなことがあるかもしれないと思って、ここで待っております。まさかのときは連れて帰るつもりで、人力車を頼んで参りました。それに、今朝飲む薬も、急いでいて忘れましたので」 と言いながら、しきりに懐に手を入れて、薬を出しそうにするので、 「私がその薬を飲ませてあげましょう」 と言いましたが、 「これはご飯の後ですぐに飲むものですから、もう遅くて駄目でしょう。それに、私がここに来ていることでも知れると、試験のためによくありません」 「それでは、名前は何といいますか」 「…………」 「何番ですか」 「番号もはっきりしません、……英法です……もし知れると、恥ずかしがりますから……」 「ここの試験では、毎年三、四人ぐらい目まいを起こす者が出たり、その他いろいろな病人が出たりするので、監督の先生たちはそういうことにいつも気をつけていますし、係りの医者もいて、そんなことがあれば、おそらくあなたが世話をなさるよりも、かえって学校の世話のほうが行き届くでしょう。ですから心配なさらずに、お帰りになっても大丈夫でしょう。ただ念のために、番号がわかるなら知らせておきなさい」 「…………」 「いえ、ご本人にはわからないようにして、見守りをつけてあげます。ご本人には何も知らせないで、医者と監督の先生にとくに注意するようお願いしておきますから、安心なさい」 と言ったので、ようやく何部の何番ということを告げました。さっそくその教室に行って中に入ってみると、なるほど顔つきがいかにもその婦人によく似た青年がいて、二人の関係がまさしく母と子であることがはっきりしました。彼はそんなことは夢にも知らず、答案に余念のない様子でした。私は係員の先生や医者にもとくに注意を頼んで、その教場を去り、再び玄関に来たときには、母である人の姿も、人力車の影も、跡形もなく消えていました。
解説

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