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自警録 / 第十八章 知らぬ恩人に対する感謝・入学試験中、俥を待たした不思議の婦人(1)

さきにいった、第一高等学校の試験の初日であった。僕が各教場を通って廊下に出て、玄関の側を歩んで来ると、ちらりと眼に映ったものは、分館の玄関のわきに一台の人力車の傍に立っている車挽と、これを隔つること一間ばかり傍に、袋を手にしている四十ちかくの婦人であった。試験の最中の事であれば、三千になんなんとする青年を収容した学校も、百人ちかくの試験官の見張り監督していても、ただ水を打ったように静寂を極めて、廊下の板をふむ巡視の靴音さえも聞こえないほど静かで、ほとんど人なきがごとき様であるところの玄関に、何用あって婦人のいることか、その理由もちょっと解し難かったから、僕は小使に代って、この婦人に向い、その用を質して、 「もし学校の事務所に御用ならば、あの玄関へ、もし生徒の寄宿寮に御用ならば、そちらの玄関でお尋ねなさい。ここにはちょうど試験の最中で人がおってもいないようなものです」 と心附けたが、その婦人はさもそのへんのことは承知のごとく、妙な顔をして、 「ハイ、ここで待っております」 というだけで、さらに動く様子も見えなかったから、 「貴女のお尋ねになる方は、ここにいる人ですか」 「ハイ、いま試験しております」 「そんなら、先生ですか、生徒ですか」 「生徒でございます」 「生徒ならばまだ急に出る訳には行きますまい。試験は十一時までですから、もう二時間もあります」 「ハイ、それも承知しております」 「そんなら、もう二時間もここでお待ちになるのは非道ですから、あちらに休む所があります。それとも急な事なら、私が取次いであげましょう。そうでなければ、十一時に出なおして、お出になったら宜うございましょう」 と心附けたが、この婦人はさらに去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、 「ただこちらで待っております」 というだけなので、僕はますます奇態に思って、かつ側に俥のあることゆえ、何か容易ならぬ仔細もあらんと察して、一しお念入れてその用向きの次第を質したところが、

書き下し

さきにいった、第一高等学校の試験の初日であった。僕が各教場を通って廊下に出て、玄関の側を歩んで来ると、ちらりと眼に映ったものは、分館の玄関のわきに一台の人力車の傍に立っている車挽と、これを隔つること一間ばかり傍に、袋を手にしている四十ちかくの婦人であった。試験の最中の事であれば、三千になんなんとする青年を収容した学校も、百人ちかくの試験官の見張り監督していても、ただ水を打ったように静寂を極めて、廊下の板をふむ巡視の靴音さえも聞こえないほど静かで、ほとんど人なきがごとき様であるところの玄関に、何用あって婦人のいることか、その理由もちょっと解し難かったから、僕は小使に代って、この婦人に向い、その用を質して、 「もし学校の事務所に御用ならば、あの玄関へ、もし生徒の寄宿寮に御用ならば、そちらの玄関でお尋ねなさい。ここにはちょうど試験の最中で人がおってもいないようなものです」 と心附けたが、その婦人はさもそのへんのことは承知のごとく、妙な顔をして、 「ハイ、ここで待っております」 というだけで、さらに動く様子も見えなかったから、 「貴女のお尋ねになる方は、ここにいる人ですか」 「ハイ、いま試験しております」 「そんなら、先生ですか、生徒ですか」 「生徒でございます」 「生徒ならばまだ急に出る訳には行きますまい。試験は十一時までですから、もう二時間もあります」 「ハイ、それも承知しております」 「そんなら、もう二時間もここでお待ちになるのは非道ですから、あちらに休む所があります。それとも急な事なら、私が取次いであげましょう。そうでなければ、十一時に出なおして、お出になったら宜うございましょう」 と心附けたが、この婦人はさらに去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、 「ただこちらで待っております」 というだけなので、僕はますます奇態に思って、かつ側に俥のあることゆえ、何か容易ならぬ仔細もあらんと察して、一しお念入れてその用向きの次第を質したところが、

現代語訳

先に言った、第一高等学校の試験の初日のことでした。私が各教場を巡って廊下に出て、玄関の脇を歩いていくと、ちらりと目に映ったのは、分館の玄関の脇に一台の人力車と、そのそばに立っている車夫、それを隔てて一間ばかりのところに、袋を手にした四十近い婦人でした。試験の最中ですから、三千に近い青年を収容した学校も、百人近くの試験官が見張りと監督をしていても、ただ水を打ったように静まり返り、廊下の板を踏む巡視の靴音さえ聞こえないほど静かで、ほとんど人がいないようなありさまです。その玄関に、何の用があって婦人がいるのか、理由もすぐにはわかりませんでした。そこで私は用務員に代わって、この婦人にその用を尋ね、 「もし学校の事務所に御用なら、あちらの玄関へ。もし生徒の寄宿寮に御用なら、そちらの玄関でお尋ねなさい。ここは今ちょうど試験の最中で、人がいても、いないようなものです」 と教えましたが、その婦人は、そのあたりのことは承知のうえという様子で、妙な顔をして、 「はい、ここで待っております」 とだけ言い、さらに動く様子も見えなかったので、 「あなたが訪ねる方は、ここにいる人ですか」 「はい、いま試験を受けております」 「それなら、先生ですか、生徒ですか」 「生徒でございます」 「生徒なら、まだ急には出られないでしょう。試験は十一時までですから、まだ二時間もあります」 「はい、それも承知しております」 「それなら、二時間もここでお待ちになるのはお気の毒ですから、あちらに休む所があります。それとも急な用なら、私が取り次いであげましょう。そうでなければ、十一時に出直して、お出になったときにお会いになればよいでしょう」 と注意しましたが、この婦人はさらに立ち去る様子もなく、少し恥ずかしそうにして、 「ただ、こちらで待っております」 とだけ言うので、私はますます不思議に思い、しかもそばに人力車があることから、何か容易ならぬ事情があるのだろうと察して、いっそう念を入れて用向きの次第を尋ねたところ、

解説

試験の静まり返る校内の玄関に、人力車と袋を持った四十近い婦人が立っている。新渡戸はその様子を見とがめ、用向きを丁寧に尋ねます。婦人はひたすら「ここで待っております」と答えるだけです。校長自ら、休む場所を勧め、取り次ぎを申し出ているところに、新渡戸の気さくで細やかな人柄が出ています。会話体の運びで、読者は謎が解けるのを待たされます。現代の職場でも、声を上げず黙って待っている人の事情は、こちらから丁寧に問わなければわかりません。察しと問いかけの両方を持ちたい、という教えにもつながります。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

人力車婦人玄関問いかけ察し校長の気配り

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