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自警録 / 第十八章 知らぬ恩人に対する感謝・見る人毎に有難からぬ人はない

十一時の鐘が鳴ると同時に彼も教室を出て、下駄をはいて友人と笑いながら話をしているのを僕は認めた。これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったなら、母の安心はいかばかりであろうと思いつつ、彼の姿の門を出ずるを見送った。彼は友人と肩をたたいて談笑しつつ去ったが、おそらく彼の脳髄はただ試験の答案をもってのみ満たされて、母の苦心に考えを向ける余地はなかったろう。しかるに奚ぞ知らん、彼が無難に何時間の試験を経、その翌日もまたその翌日も無難に経たことは、彼の学力のみによると思ったなら、大いに見当がちがっておりはしまいか。 彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬ間にとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を擁護する母の情愛があって、始めて無難な試験を経たものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。 右はただ僕の実見にふれた一例に過ぎぬ。かくのごとき恩愛は人の眼を忍んで、世にあまたあると信ずる。いな、あまたどころではない、かくのごとき情愛は空中に満ちていると思う。ただこの満ちている情愛に触れていながら、これに感ずるに鈍きわれわれの心情こそ、遺憾至極である。感応の力にして鋭敏であるなら、いたるところありがたからざる場所はなく、見る人ごとにありがたからざる人はない。 黒住教の開祖宗忠翁の歌に、 有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす人ぞ一とく 有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす身こそ安けれ 有りがたや心の雲もはれわたりうきよの雲はとにもかくにも

書き下し

十一時の鐘が鳴ると同時に彼も教室を出て、下駄をはいて友人と笑いながら話をしているのを僕は認めた。これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったなら、母の安心はいかばかりであろうと思いつつ、彼の姿の門を出ずるを見送った。彼は友人と肩をたたいて談笑しつつ去ったが、おそらく彼の脳髄はただ試験の答案をもってのみ満たされて、母の苦心に考えを向ける余地はなかったろう。しかるに奚ぞ知らん、彼が無難に何時間の試験を経、その翌日もまたその翌日も無難に経たことは、彼の学力のみによると思ったなら、大いに見当がちがっておりはしまいか。 彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬ間にとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を擁護する母の情愛があって、始めて無難な試験を経たものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。 右はただ僕の実見にふれた一例に過ぎぬ。かくのごとき恩愛は人の眼を忍んで、世にあまたあると信ずる。いな、あまたどころではない、かくのごとき情愛は空中に満ちていると思う。ただこの満ちている情愛に触れていながら、これに感ずるに鈍きわれわれの心情こそ、遺憾至極である。感応の力にして鋭敏であるなら、いたるところありがたからざる場所はなく、見る人ごとにありがたからざる人はない。 黒住教の開祖宗忠翁の歌に、 有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす人ぞ一とく 有りがたやかゝるめでたき世に出でてたのしみ暮らす身こそ安けれ 有りがたや心の雲もはれわたりうきよの雲はとにもかくにも

現代語訳

十一時の鐘が鳴るとともに、彼も教室を出て、下駄をはいて友人と笑いながら話をしているのを私は認めました。これなら大丈夫だ、この様子で家に帰ったら、母の安心はどれほどだろうと思いながら、彼の姿が門を出るのを見送りました。彼は友人と肩をたたいて談笑しながら去っていきましたが、おそらく彼の頭の中は試験の答案のことでいっぱいで、母の苦心に考えを向ける余裕はなかったでしょう。しかし、どうして知り得たでしょうか。彼が何時間もの試験を無難に終え、その翌日も翌々日も無難に過ごせたのは、彼の学力だけのおかげと思ったら、大いに見当違いではありますまいか。 彼の眠れない夜は一緒に起き、彼が眠っているあいだも目を覚まし、彼が起きないうちに早く起きて、彼の準備を助け、彼の目や耳にまったく触れないようにして、彼の身辺を守る母の情愛があって、はじめて無難に試験を通過できたのだと、迷信かもしれませんが、私は信じます。 右はただ、私が実際に目にした一例にすぎません。このような恩愛は、人目を忍んで、世の中にたくさんあると信じます。いや、たくさんどころではありません。このような情愛は、空中に満ちていると思います。ただ、この満ちている情愛に触れていながら、それに感じるのに鈍い私たちの心こそ、残念至極です。感じる力が鋭ければ、至るところ、ありがたくない場所はなく、見る人ごと、ありがたくない人はありません。 黒住教の開祖、宗忠翁の歌に、 「ありがたいことよ、このようにめでたい世に生まれ出て、楽しく暮らす人は、ひとつの徳を得ているのだ」 「ありがたいことよ、このようにめでたい世に生まれ出て、楽しく暮らす身こそ安らかだ」 「ありがたいことよ、心の雲も晴れわたった。浮世の雲はどうあろうとも」 とあります。

解説

試験を無難に終えた青年は、母の苦心を知らず友人と談笑して去ります。新渡戸は、彼が無事に試験を乗り切ったのは学力だけではなく、眠れぬ夜も共に起き、身辺をそっと守る母の情愛があったからだと信じる、と述べます。迷信かもしれないがと断りつつ、こうした情愛は空気のように世に満ちているのに、私たちは感じるのに鈍いと嘆きます。感じ取る力が鋭ければ、見る人すべてがありがたい。結びには黒住宗忠の歌が引かれます。現代でも、成果は自分の力と思いがちですが、日々の支えに気づく感度を磨くことが、周囲との信頼を深くします。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

母の情愛感応恩愛ありがたさ黒住宗忠鈍感

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