自警録 / 第十七章 実業を精神化せよ・人生を甘からしむる心がけ
今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、冒頭に掲げた米人の言うごとく、おのおのが潔よい愛情から起算して、(親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい情合いに基づいて)己れの日々の事務を怠らず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と己れの預っている職務に忠実にして、なおかつ思想は高く俗界を超越して、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が肥料を施しても収穫以上に目的を置き、教師が教場に出ても志を遠きに着け、役人が執務するに、俗務のために没却されない、すなわち一言に縮めると、吾人が人格としてまったく世を隔れた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう垂直的関係と平面的関係との調和を始終図って行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにも顕れて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。 「軒冕(高貴の人の乗る馬車)の中におれば、山林の気味なかるべからず。林泉(田舎の意)の下に処りては、須らく廊廟(朝廷)の経綸を懐くを要すべし」と。 吾人は、いかなる低き、いわゆる卑しき職に従事しても心一つは高く持ちたい。
書き下し
今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、冒頭に掲げた米人の言うごとく、おのおのが潔よい愛情から起算して、(親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい情合いに基づいて)己れの日々の事務を怠らず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と己れの預っている職務に忠実にして、なおかつ思想は高く俗界を超越して、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が肥料を施しても収穫以上に目的を置き、教師が教場に出ても志を遠きに着け、役人が執務するに、俗務のために没却されない、すなわち一言に縮めると、吾人が人格としてまったく世を隔れた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう垂直的関係と平面的関係との調和を始終図って行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにも顕れて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。 「軒冕(高貴の人の乗る馬車)の中におれば、山林の気味なかるべからず。林泉(田舎の意)の下に処りては、須らく廊廟(朝廷)の経綸を懐くを要すべし」と。 吾人は、いかなる低き、いわゆる卑しき職に従事しても心一つは高く持ちたい。
現代語訳
ここまで長々と述べてきたことを要約すれば、冒頭に掲げたアメリカ人の言うように、めいめいがいさぎよい愛情から出発して(親であれ妻であれ子であれ、いちばん自分に近いからこそいちばん親しい情愛に基づいて)、毎日の務めを怠らず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と、自分が預かっている職務に忠実であることです。そのうえで、思想は高く俗界を超え、商人が金を儲けても金を目的とせず、農家が肥料をやっても収穫以上のものを目指し、教師が教室に出ても志を遠くに置き、役人が執務しても俗務に埋もれない。ひと言に縮めれば、人格としてはまったく世を離れた思いを抱くと同時に、世に対しては、どんな俗務でも尽くす。私がたびたび言う垂直的関係と平面的関係との調和をいつも図っていけば、つまらない務めにも深い意味があることがわかり、また深い意味のある思想がつまらないと言われることにも現れて、人生の味わいはたいへん甘いものになります。 「高貴な人の乗る馬車に座っているときは、山林の趣を失ってはならない。田舎の林や泉のほとりに暮らすときは、朝廷の政を担う志を抱くべきである」と古人は言います。 私たちは、どんなに低い、いわゆる卑しい職に就いても、心だけは高く持ちたいものです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬以上の務めの真義各自の職務には分限があって、その範囲を脱するをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその手腕を揮わんとしても職権以外に出られぬ。ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。 職務の分量に止まらずして職務の品性をよくせよというのである。十貫目の荷物を荷うものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。もっとも荷っても身体に差支えなく、またために全体に悪影響の及ぶ憂いがなければ、それも差支えあるまいけれども、なんらかの事由のために各自の重荷は十貫目を超えてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上を荷えとは勧めぬ。しかし十貫目を荷うに苦い顔せず、喜んで荷いたい。荷うさまを綺麗にし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目担げといえば、なるべく品よいものを担げというのである。 かく比喩をもってしては、あるいは意味が解らぬか知らぬが、譬を変えていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間には苦い顔せず、また叱ったり不愉快な風に教えないで、愉快にこれを教えたいのである。また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。出勤簿には、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、苦い顔して教えても嬉しい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。 この事は決して教員に限ることでない。役所や会社においても執務時間に、机の前に腰かけるだけは誰も同様であるが、実際仕事を捌くについても、ぶつぶつ囁きながらすると、快活にやるとは仕事の分量において異いはなくとも、その品質と、同僚に及ぼす感情には雲泥の差を起こす。仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。 「施して必ず報ある者は、天地の定理なり。仁人之を述べて以て人に勧む。施して報を望まざる者は、聖賢の盛心なり。君子之を存して以て世を済う」。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・富貴は方法なり目的にあらずまた本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬を求むる手段としての務僕の知れる某貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞淑をもって称せられているが、あるとき僕に、 「世間の人は芸妓をたいそう卑しみ、悪く言いますが、私は芸妓よりも卑しいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。芸妓はお世辞を売品とし、彼方此方に振りまき、柔しいことをいうて、その報酬にポチを貰おうとするが、彼らは明さまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。欺される人は、招牌見ないで店に飛び込むようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは貞操を招牌にかけ、むろんポチだの報酬だのを夫より受くべきはずはないが、しかし随分それを強請ろうと思い、衣服を買って貰いたいがために、心にもないことを夫に述べて目的を遂げる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人を欺くもので、神仏の目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに劣ったものと思われましょう」 といわれたが、なになにの報酬を得るがために、事を為すくらい卑しいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官吏でも、月給を得んがために、礼を貰わんがために、ボーナスに与からんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は聖人君子の集会でない、否、十人中九人までは小人である。与うるに利をもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、互いにその積りで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。
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自警録・第十七章 実業を精神化せよ・「国家」というよりも健全なる個人思想が大切(1)僕はくれぐれも言うが、国家のために忠君愛国の観念は貴ぶべきものにして、独り教育のみならず実業においても涵養すべきものであると思う。この観念の涵養は漫りにくりかえすことによりて目的を果たし得るものでない。これを乱用すればかえって正反対の結果を来たすを恐れる。ちょうど欧米において宗教の力の最もさかんな時には、何事についても上帝やキリストを担ぎ出して、その目的を果たそうとしたが、その結果を見るとかえって面白くないことが多かった。たとえば療法にも信仰だの加持祈祷だのを混合する。もちろん病気によってはいわゆる気の病いもあるから、心の持ちようで癒る病気もあろう。してこの類の病気には信仰が著しく功を奏したろうけれども、黴菌から起こる病いのごときに至っては、宗教が入り込んではかえって療治の邪魔になることが多い。 教育においてもそうである。僕自身は宗教なき教育は人の心髄を動かすものでないと信ずるけれども、しからばとて学校の課目に宗教を入れることは、かえって教育の目的を阻害するものと思う。と同様に実業にも国家や愛国を入れることは、(僕は非常の時を言うのではない)かえって実業の邪魔にもなり、また国家愛国の観念にも疵をつける憂いがある。
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自警録・第十七章 実業を精神化せよ・個人的利益と国家社会の利益(1)僕はこの男とかねてより親しくしている。彼が教会において年に似合わぬほどの信用を受けておるのも、知人はことごとく彼を尊敬することも、かねて承知であるが、数時間に渡って彼の人生観、なかでも貨殖に関する態度を初めて聞き知った。僕が彼の話を聞きながら、言葉がただの一度も社会のためとか、ましていわんや国家のためということに、わたらなかったことがあとで気がついた。 普通日本の実業家であれば、五万足らずの会社を設立するにも、その宣言には、己れの身を犠牲にして、社会に貢献するところあらんとするとか、あるいはこれ実に国家の事業なりとの意をほのめかす者がはなはだ多い。その多いのが必ずしも悪いとわが輩は言わぬ。己れを捨てて社会の利益を図るの望ましきことはいうまでもない。事を為すに国家観念より打算するもはなはだ嘉すべきことである。
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自警録・第二章 一人前の人と一人前の仕事・要は人は業なり(1)かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一人並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に昇らばよろしく室にも入るを要する。しかして甲がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣は深さ高さによりて測り、たしかに某は何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを為したとしても、その人はやはり専門については一人前の分をなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一人並みであるや否やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして衆に優れたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大分の相違があるであろう。今日のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果さえ挙ぐるを得ば人として生まれ来た甲斐ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。 「文は人なり」 というが、人格を示すもの豈に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措いては事もなく業もない。一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し難きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。 これを譬えていえば、ここに数多の器があるとする。これらの器――仮りに徳利とすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一石も容るれば小さきものは一勺も容れ得ぬ。しかしいかに小なるも玩具にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び做す。してみれば徳利の徳利たる所以はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡には大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴でなければ、みな一人前と算えらるるであろう。