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自警録 / 第十七章 実業を精神化せよ・「国家」というよりも健全なる個人思想が大切(2)

かつて実業に従事する者は感情と実務とを混合してはかえって害あることを述べたが、今日ここに述べることも要するに同じ考えに帰する。さきに米人の言葉を取って話したうちに、感情がさらに入っていないかというと大いに入っている。すなわちその妻子を思うの感情、一口にいうと自家の感情である。これは社会に対すれば私の感情であるけれども、その個人から見れば愛他的のものである。もし一国に危険でもあるときには、一家を愛する感情ではあるいは物足らぬ事もあろう。我が国の誉として我々は親も捨て、はなはだしきは妻子を殺すまでして出陣した例などを物語ると、今日の西洋人の耳には野蛮に聞こゆるそうだが、かくのごとき例は幾たび聞いても、僕らの嘆賞を買うものである。ゆえに我々は一家を捨てることをも重いことに思わない。ゆえに事あれば国のためとはいうけれど、一家のためとは絶叫しない。しかし西洋の人は戦いに出る時も炉辺と家庭と for hearth and home を揚言する。ちょっと聞くといかにも個人的であるが、しからばとて国が仆れても自分の炉辺に差支えなければ平気でいるかというとそうでない。 学者は社会の進歩の秩序として、団体観念から個人関係に移って行くと説く人もあるが、欧州の進歩は果たしてそういう形跡を現している。日本の歴史にして果たして西洋史と轍を同じゅうするものならば、我々も近ごろ言う国家々々という声が今後いくらか弱りはせぬかと懸念に堪えないと同時に、健全なる個人的思想に伸びて行ったならば、国家なる語を公言することは少なくなっても、実際においてその力が強くなるであろうと信ずる。

書き下し

かつて実業に従事する者は感情と実務とを混合してはかえって害あることを述べたが、今日ここに述べることも要するに同じ考えに帰する。さきに米人の言葉を取って話したうちに、感情がさらに入っていないかというと大いに入っている。すなわちその妻子を思うの感情、一口にいうと自家の感情である。これは社会に対すれば私の感情であるけれども、その個人から見れば愛他的のものである。もし一国に危険でもあるときには、一家を愛する感情ではあるいは物足らぬ事もあろう。我が国の誉として我々は親も捨て、はなはだしきは妻子を殺すまでして出陣した例などを物語ると、今日の西洋人の耳には野蛮に聞こゆるそうだが、かくのごとき例は幾たび聞いても、僕らの嘆賞を買うものである。ゆえに我々は一家を捨てることをも重いことに思わない。ゆえに事あれば国のためとはいうけれど、一家のためとは絶叫しない。しかし西洋の人は戦いに出る時も炉辺と家庭と for hearth and home を揚言する。ちょっと聞くといかにも個人的であるが、しからばとて国が仆れても自分の炉辺に差支えなければ平気でいるかというとそうでない。 学者は社会の進歩の秩序として、団体観念から個人関係に移って行くと説く人もあるが、欧州の進歩は果たしてそういう形跡を現している。日本の歴史にして果たして西洋史と轍を同じゅうするものならば、我々も近ごろ言う国家々々という声が今後いくらか弱りはせぬかと懸念に堪えないと同時に、健全なる個人的思想に伸びて行ったならば、国家なる語を公言することは少なくなっても、実際においてその力が強くなるであろうと信ずる。

現代語訳

以前、実業に従事する者は、感情と実務を混ぜ合わせるとかえって害がある、と述べましたが、ここで述べることも要するに同じ考えに行き着きます。先にアメリカ人の言葉を取り上げて話しましたが、そこに感情がまったく入っていないかといえば、大いに入っています。つまり、妻子を思う感情、ひと口でいえば自分の家を思う感情です。これは社会に対していえば私的な感情ですが、その個人から見れば他人を思う愛他的なものです。もし一国に危険が迫るようなときには、一家を愛する感情だけでは物足りないこともあるでしょう。わが国の誉れとして、私たちは親を捨て、はなはだしくは妻子を殺してまで出陣した例を語りますが、今日の西洋人の耳には野蛮に聞こえるそうです。それでも、こうした例は何度聞いても私たちの嘆賞を誘います。だから私たちは、一家を捨てることをも重いことに思いません。事があれば国のためとは言っても、一家のためと叫ぶことはしません。しかし西洋の人は、戦いに出るときも炉辺と家庭のために、for hearth and home と声を上げます。ちょっと聞くといかにも個人的ですが、では国が倒れても自分の炉辺に差し支えがなければ平気でいるのかといえば、そうではありません。 学者のなかには、社会進歩の順序として、団体の観念から個人の関係へ移っていくと説く人がいます。ヨーロッパの進歩はたしかにそういう跡を示しています。日本の歴史が西洋史と同じ道をたどるものなら、近ごろ盛んに言われる国家国家という声も、今後いくらか弱まるのではないかと心配になります。同時に、健全な個人的思想に伸びていけば、国家という語を公言することは少なくなっても、実際にはその力が強くなるだろうと私は信じています。

解説

新渡戸は、アメリカ人の「身近な愛情から出発せよ」という考えを手がかりに、国を支えるのは叫ばれる国家の語よりも、家族への素直な愛情に根ざした健全な個人だと論じます。西洋人は for hearth and home と個人的な言葉で戦いに出ても、国が倒れて平気でいるわけではない、という対比が要点です。現代の組織でも、会社のためと連呼するより、各人が自分の暮らしと仕事に誇りを持つほうが、結果として組織の底力になります。看板より足元の個人を育てるという視点です。
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この章句が説くこと

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