自警録 / 第二章 一人前の人と一人前の仕事・要は人は業なり(1)
かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一人並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に昇らばよろしく室にも入るを要する。しかして甲がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣は深さ高さによりて測り、たしかに某は何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを為したとしても、その人はやはり専門については一人前の分をなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一人並みであるや否やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして衆に優れたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大分の相違があるであろう。今日のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果さえ挙ぐるを得ば人として生まれ来た甲斐ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。 「文は人なり」 というが、人格を示すもの豈に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措いては事もなく業もない。一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し難きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。 これを譬えていえば、ここに数多の器があるとする。これらの器――仮りに徳利とすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一石も容るれば小さきものは一勺も容れ得ぬ。しかしいかに小なるも玩具にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び做す。してみれば徳利の徳利たる所以はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡には大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴でなければ、みな一人前と算えらるるであろう。
書き下し
かくいったからとて僕は専門に集中することをやめて、人間一人並みになるには、あれも少し、これも少しと音楽も商売も政治も踊も大弓もやれというにはあらぬ。仕事するにはよろしく専門的であるべしと僕は確信している。堂に昇らばよろしく室にも入るを要する。しかして甲がその専門についてある点まで上達すれば、乙がまた他の専門についてある点に達するに比べて専門がいかに違っても、各自の造詣は深さ高さによりて測り、たしかに某は何の道においては人並み以上なりということが出来る。もしかくのごとき人にしてたとい非倫のことを為したとしても、その人はやはり専門については一人前の分をなしたものといわねばならぬ。しかるにこの人は果たして人として一人並みであるや否やにいたっては疑問であるといわねばならぬ。 しからば一人前の人となるのと、一人前の仕事をするのとはまったく別であろうか。人としては不具者であるも、仕事をして衆に優れたならば、それで甘んじて死すべきか。この問題になるとおそらく人々の考えに大分の相違があるであろう。今日のごとく功利的思想のさかんなる時代においては、人となりは一人前ならなくとも、仕事の効果さえ挙ぐるを得ば人として生まれ来た甲斐ありと信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧みぬであろうが、しかし真に偉大なる効果を挙ぐる仕事師は、その人格においても人並み以上たらねばならぬことがだんだんに分かって来はせぬか。 「文は人なり」 というが、人格を示すもの豈に独り文のみならんやで、政治も人なり、実業も人なり、学問も人なり、人を措いては事もなく業もない。一人前の仕事を為し遂げんと欲する者はあらかじめ一人前の人となることを心がくべきものと思う。一人前の仕事さえ出来れば、一人前の人なりとは断定し難きものでなかろうかとは、僕の常に疑うところである。 これを譬えていえば、ここに数多の器があるとする。これらの器――仮りに徳利とすればその仕事は水を入れるにある。そしていずれもその容積は異なっている。大きいものは一石も容るれば小さきものは一勺も容れ得ぬ。しかしいかに小なるも玩具にあらざる限りは、皆ひとかどの徳利と称する。ただ何の実用にもならぬほど小さければ徳利一本といわずに玩具一つと呼び做す。してみれば徳利の徳利たる所以はある最小限以上の容積すなわち分量すなわち仕事にあると思わるれども、分量の多寡には大差がある。人も同じく多数の者が同種類の仕事に従事していても、仕事の能率の上に非常なる差があっても、白痴でなければ、みな一人前と算えらるるであろう。
現代語訳
こう言ったからといって、私は専門に集中することをやめて、人間一人並みになるためには、あれも少し、これも少しと、音楽も商売も政治も踊りも弓道もやれ、と言うのではありません。仕事をするには専門的であるべきだと、私は確信しています。堂に昇ったからには、室にも入る必要があります。そして甲がその専門である点まで上達すれば、乙がまた他の専門である点に達するのと比べて、専門がどれほど違っても、各自の造詣は深さ高さで測れ、確かに「某は何の道では人並み以上だ」と言うことができます。もしこうした人がたとえ非倫のことをしても、その人はやはり専門については一人前の分をなしたと言わなければなりません。しかしこの人がはたして人として一人並みであるかとなると、疑問であると言わなければなりません。 それでは、一人前の人となることと一人前の仕事をすることとは、まったく別でしょうか。人としては不具者でも、仕事をして衆に優れたなら、それで満足して死んでよいのでしょうか。この問題になると、人々の考えにはおそらく大きな違いがあるでしょう。今日のように功利的な思想が盛んな時代には、人となりは一人前でなくとも、仕事の効果さえ挙げられれば、人として生まれた甲斐があると信じ、仕事に重きを置いて人となりを顧みないでしょう。しかし真に偉大な効果を挙げる仕事師は、その人格においても人並み以上でなければならないことが、だんだん分かってきてはいないでしょうか。 「文は人なり」 と言いますが、人格を示すのは文だけではなく、政治も人であり、実業も人であり、学問も人であり、人を措いては事も業もありません。一人前の仕事を成し遂げようとする者は、あらかじめ一人前の人となることを心がけるべきだと思います。一人前の仕事さえできれば一人前の人だと断定するのは難しいのではないかというのが、私が常に疑うところです。 これを譬えて言えば、ここに数多くの器があるとします。これらの器を、かりに徳利とすれば、その仕事は水を入れることにあります。そしていずれも容積は異なっています。大きいものは一石も入りますが、小さいものは一勺も入りません。しかしどれほど小さくても、玩具でない限りは、みなひとかどの徳利と称します。ただ、何の実用にもならないほど小さければ、徳利一本とは言わず、玩具一つと呼びます。そう考えると、徳利が徳利である理由は、ある最小限以上の容積、つまり分量、つまり仕事にあると思われますが、分量の多少には大きな差があります。人も同じように、多くの者が同じ種類の仕事に従事していて、仕事の能率の上に非常な差があっても、白痴でなければ、みな一人前と数えられるでしょう。
解説

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