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自警録 / 第十六章 富貴の精神化・富貴は方法なり目的にあらず

また本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。

書き下し

また本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。

現代語訳

さて本題に戻って、卒業式での名士の実業に関する演説を見ると、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの魂を埋没させることのないようにと説き、富貴は人生の目的ではなく、人生の方法であり補助物であり、人間がその人格を発揮するために使う道具であるという点に重きを置き、実業や金もうけを今日のように物質的な職業とみなさないで、新しい見解を加え、新しい精神を吹き込んで実業を精神化すべきである、あくまでも人を主として物質を従とすべきである、と論じた。 実にそのとおりで、数万の金を蓄えても、人が人であることを忘れない限り、金は邪魔にもならないし、悪用もされない。富む者が必ず不仁なのではない。また不仁の者だけが富むわけでもない。 これまで、英米の人は、専門的教育を必要とする職業、すなわち統計学者のいわゆる自由業と、専門の知識を必要とせず常識による実際的な営業とを明らかに区別して、一つを profession、もう一つを business と名づけた。もちろん自由業は高尚なものとされ、これに従事する者には社会も相応の尊敬を払い、官吏、弁護士、教育家、軍人などは、金銭では買うことのできない尊敬を博していた。 ところが、いわゆる business man、実業家は、その業務の目的が金にあるので、ことさらに名誉をもって迎えられなかった。これは、どこかの政府の方針政策というわけではなかったが、モンテスキューも説いたように、金の力と名誉とは両立させるべきでないという説が一般に行われていたためであろう。そしてこれはきわめて当然な考えで、俗世間では、資産家は人物のいかんを問わず、ただ金があるというだけで一種の勢力を持つものである。ところがこの上に、国家や社会が名誉まで付けたなら、彼らの勢力の増大は抑えがたいものになるだろう。

解説

卒業式の演説は、富貴は目的でなく人格を発揮する道具だ、実業を精神化し、人を主として物を従にせよと説いた、と新渡戸は紹介します。金があっても人が人であることを忘れなければ、邪魔にも悪用にもならない。ここで印象的なのは、英米で職業を profession と business に分け、金の力と名誉を両立させない考えがあったという説明です。富による勢力に名誉まで重ねれば増長を止められない、という懸念が背景です。収益を上げることと、尊敬を得ることを混同しない姿勢が、今日の経営にも通じます。
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この章句が説くこと

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