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自警録 / 第十五章 逆上を警む・一円の小遣いを一円の財布に投じた経験

僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。その節の土産として大枚金一円貰ったことがある。そのころ僕の小遣銭は一週間に二十銭と定まっていたからして、一円紙幣を手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。そこで僕の頭に第一に浮かんだ問題は、この大金を入るべき相当な財布を得ることであった。ただちに袋物屋に走って種々の財布や紙入れを見た。中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、それを取ることに定めて、値段を糺すと一円ということであった。すなわち懐中に持参の一円紙幣を払って空の紙入れを家に持って帰ったことがある。 笑うにも及ばぬほどの愚なる一場の話に過ぎぬが、その後四十余年のちの今日に至るまで、この経験が僕に教えた教訓ははなはだ少なくない。一身を顧てもあるいは他人を見ても、月給が入った、金を儲けたからとて、無駄の浪費をしている人を見ると、彼奴め一円取って一円の財布を買っているわいと思う。大いに勢力のある位置を獲たと喜んで、その勢力を振りまわす人を見ると、彼奴一円の勢力を得て一円だけ威張って、あとは空になっているわいと思う。学問なりその他の名誉を得て傲る者を見ると、彼奴も近ごろ一円貰ったばっかりだな、ああいう風にやっては明日の日の登る前に形無しになるであろうと思う。とかく金に限らず、位置でも名誉でも己れに帰するときは、油断をすれば逆上してこれを利用するを忘れてただ濫用に陥りやすい。逆上は独りおおぜいの群集の内にあってのみ慎むべき点でなく、ただ一人おっても、ただ一身を守るにも、なお慎むべきものであると、かれこれの事について大いに感じたから件の如し。

書き下し

僕が十一、二歳のころ東京に遊学していた際に、郷里から兄が上京して来た。その節の土産として大枚金一円貰ったことがある。そのころ僕の小遣銭は一週間に二十銭と定まっていたからして、一円紙幣を手にしたことはおそらくそのとき初めてであったろう。そこで僕の頭に第一に浮かんだ問題は、この大金を入るべき相当な財布を得ることであった。ただちに袋物屋に走って種々の財布や紙入れを見た。中にすこぶる気に入ったのが一つあったから、それを取ることに定めて、値段を糺すと一円ということであった。すなわち懐中に持参の一円紙幣を払って空の紙入れを家に持って帰ったことがある。 笑うにも及ばぬほどの愚なる一場の話に過ぎぬが、その後四十余年のちの今日に至るまで、この経験が僕に教えた教訓ははなはだ少なくない。一身を顧てもあるいは他人を見ても、月給が入った、金を儲けたからとて、無駄の浪費をしている人を見ると、彼奴め一円取って一円の財布を買っているわいと思う。大いに勢力のある位置を獲たと喜んで、その勢力を振りまわす人を見ると、彼奴一円の勢力を得て一円だけ威張って、あとは空になっているわいと思う。学問なりその他の名誉を得て傲る者を見ると、彼奴も近ごろ一円貰ったばっかりだな、ああいう風にやっては明日の日の登る前に形無しになるであろうと思う。とかく金に限らず、位置でも名誉でも己れに帰するときは、油断をすれば逆上してこれを利用するを忘れてただ濫用に陥りやすい。逆上は独りおおぜいの群集の内にあってのみ慎むべき点でなく、ただ一人おっても、ただ一身を守るにも、なお慎むべきものであると、かれこれの事について大いに感じたから件の如し。

現代語訳

私が十一、二歳のころ、東京に遊学していたとき、郷里から兄が上京してきた。そのときのお土産として、大金の一円をもらったことがある。そのころ私の小遣いは一週間に二十銭と決まっていたので、一円札を手にしたのは、おそらくそのときが初めてだったろう。そこで私の頭にまず浮かんだ問題は、この大金を入れるのにふさわしい財布を手に入れることであった。すぐに袋物屋に走って、いろいろな財布や紙入れを見た。そのなかにたいそう気に入ったものが一つあったので、それを取ることに決めて値段をたずねると、一円ということであった。そこで、懐に持ってきた一円札を払って、空の紙入れを家に持って帰ったことがある。 笑うにも及ばない愚かな一場の話にすぎないが、その後四十余年たった今日に至るまで、この経験が私に教えた教訓は少なくない。我が身を顧みても、他人を見ても、月給が入った、金をもうけたからといって、無駄な浪費をしている人を見ると、あいつは一円もらって一円の財布を買っているなと思う。大いに勢力のある地位を得たと喜んで、その勢力を振り回す人を見ると、あいつは一円の勢力を得て一円分だけ威張って、あとは空になっているなと思う。学問やその他の名誉を得て驕る者を見ると、あいつも近ごろ一円もらったばかりだな、あの調子でやっては、明日の日が昇る前に形無しになるだろうと思う。とかく、金に限らず、地位でも名誉でも、自分のものになったときには、油断すれば逆上して、それを利用することを忘れ、ただ濫用に陥りやすい。逆上は、大勢の群集のなかにあってだけ慎むべきものではなく、ただ一人でいても、ただ一身を守るにも、なお慎むべきものである。あれこれの事について大いに感じたので、右のとおり記す。

解説

一円をもらって一円の財布を買ったという少年期の失敗談は、得たものをそのまま使い切って何も残らない愚かさの比喩になっています。新渡戸は後年、浪費する人、権勢を振り回す人、名誉に驕る人を見るたびに、この財布を思い出したと述べます。得た金や地位、名誉は、それを何に生かすかで価値が決まるもので、油断すると濫用に陥る。逆上は群集の中だけでなく一人でも起こる、という結びも重要です。昇進や予算を得たとき、使い切ることが目的化していないかという点検になります。
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この章句が説くこと

一円の財布浪費権勢の濫用名誉逆上油断

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