自警録 / 第十六章 富貴の精神化・弁士の富論
アメリカの習慣で羨ましく思うものは、かの大学卒業式を熾にすることである。いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で(シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども)、して大概七月の初旬に行われる。卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生総代の答辞とか、あるいは卒業生の演説とかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。その演説は翌日新聞に掲載され、某が如何なる問題について如何なる説を吐いたかが全国に行き渡る。ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もあれば、未来を卜する者もある。自国の名誉を誇る者あれば、自国の短所を剔く者あり、実に勝手な説を吐いて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。 またこの式場に臨む人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔を偲ぶために出席し、地方の紳士淑女はいうまでもなく、遠方からもわざわざ集い来たる数ははなはだ少なくない。僕は先年の初夏、親しく久しぶりで二、三の卒業式に臨み、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って過言であるまいと思う。いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が主賓になっている以上は、招かれる弁士はただ能弁だとか悧口だとかいうだけの資格では足りない。自らその人と為り、その品性を斟酌して招待するからして、演説に自ら重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想に奔って実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形に顕れるのはこの時であろう。
書き下し
アメリカの習慣で羨ましく思うものは、かの大学卒業式を熾にすることである。いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で(シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども)、して大概七月の初旬に行われる。卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生総代の答辞とか、あるいは卒業生の演説とかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。その演説は翌日新聞に掲載され、某が如何なる問題について如何なる説を吐いたかが全国に行き渡る。ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もあれば、未来を卜する者もある。自国の名誉を誇る者あれば、自国の短所を剔く者あり、実に勝手な説を吐いて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。 またこの式場に臨む人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔を偲ぶために出席し、地方の紳士淑女はいうまでもなく、遠方からもわざわざ集い来たる数ははなはだ少なくない。僕は先年の初夏、親しく久しぶりで二、三の卒業式に臨み、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って過言であるまいと思う。いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が主賓になっている以上は、招かれる弁士はただ能弁だとか悧口だとかいうだけの資格では足りない。自らその人と為り、その品性を斟酌して招待するからして、演説に自ら重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想に奔って実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形に顕れるのはこの時であろう。
現代語訳
アメリカの習慣でうらやましく思うものは、大学の卒業式をさかんに行うことである。そもそもアメリカの諸大学は、通常、卒業式を年一回行い(シカゴ大学のように四回ある所もあるが)、たいてい七月の初旬に行う。卒業式の順序は、音楽や卒業生総代の答辞、卒業生の演説などいろいろあるが、大学の卒業式で、当の学校だけでなく国民全体にとって重要だと思うのは、式場での名士の演説である。その演説は翌日の新聞に載り、だれがどんな問題についてどんな説を述べたかが全国に行き渡る。だから、どの大学でも、著名な学者または実務家を一、二名招待して、式のなかで最も重い役割とする。これらの人が選ぶ問題は、必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もいれば、未来を占う者もいる。自国の名誉を誇る者もいれば、自国の短所を暴く者もいて、実に自由な説を述べて、ひとり学校の卒業生だけでなく、全体の公衆に訴える。 また、この式場に臨む人は、日本の学校のように卒業生や親戚に限らず、十年、二十年、なかには五十年前に卒業したという人々も、昔を偲ぶために出席し、地方の紳士淑女はいうまでもなく、遠方からわざわざ集まってくる人も少なくない。私は先年の初夏、久しぶりに二、三の卒業式に親しく臨み、また他の大学の卒業式の記事を新聞で知ったが、大学の卒業式のときは、実にアメリカ国民の思想が最高点に達した時と言っても言い過ぎではないと思う。その演説が教育に関係している必要はないとしても、青年が主賓である以上、招かれる弁士は、ただ能弁だとか利口だとかいうだけの資格では足りない。その人となりや品性を考慮して招待するので、演説に自然と重みがつき、時勢遅れの学説もあれば、あまりに理想に走って実行できない空論を述べる者もあるだろうが、とにかく一年じゅうで、アメリカの思想界が最も上品な形で現れるのはこのときであろう。
解説

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自警録・第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(1)例によって口上が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。 誰も言う通り米国は拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物主義に陥りはせぬかとみずから虞れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何となればとかく何事にしても弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴する事なれば何事によらず攻撃しやすいものである。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、また同時に袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊に陥りやすい。君子はその罪を憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子にして初めてなし得ることで、我々凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼の親戚友人家屋生国までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものをすら罪する傾向がある。
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自警録・第二十一章 潔き感情と正しき思想・大統領改選に現れたる米人の感情と思想米国においては四年ごとに大統領の改選が行われる。一期ごとに選挙はさかんになり、党派もふえる。したがって候補者の数も増すために、世人の議論がなかなかやかましくなる。一家のうちでも二つに割れ三つに割れているところさえもある。 しかるに彼らの論ずるところを傍で聞くと、地質学者が化石を科学的に攻究するごとき調子がある。甲の候補者はかくのごとき長所があるから、よろしく選挙すべしというと、乙の候補者の特長は、甲に対してこう勝るとか、あるいは彼らのたがいの短所がどこにあるとか、すこぶる冷淡に論じて、たまたま議論が極端に走って、容易ならぬ結果に陥るかと思えば、政治論はそれだけで、他の点において親しく談話をする様子は、わが国においてはなかなか見えないことで、このことは独り政治にのみ関してしかるわけではない。日々の事業について、実業家がその職業を営むにつけても同じこと、おのれが損したからとて、みだりにその罪を他人にかぶせるようなことはない。むろんそのかわり大いに成功したからとて、他人に感謝する感情もないように見受ける。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・富貴は方法なり目的にあらずまた本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。
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自警録・第二十五章 理想と実現・米国で僕の深く印象された米人の理想過般渡米の日、数多の著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々に直接あって、その人物に触れ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。 いわゆる黄金崇拝物質的の米国などと綽名されてあるこの国民が奢侈贅沢の弊害に陥る傾向が割合いに少ない。換言すれば一方には巨万の富を積みながらこれに安んじないで、なんなりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する気前と精力は、この国民の大いに買ってやるべき気象である。 わが同胞はだいたいにおいて貧乏であるから、富貴の誘惑なるものを知らない。貧乏人が金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。自分で金を持ってみると、金持の心理的作用もその誘惑もよく理解しうると思う。しかして我が国において少しく金を持った人は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持に較ぶれば、米国人は確かに日本人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。
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『後世への最大遺物』第一回・卒業式に植えた一本の木こういう考えは美しい考えであります。私がアメリカにおりましたときにも、その考えがたびたび私の心に起りました。私は、私の卒業した米国の大学校を去るときに、同志とともに卒業式の当日に愛樹を一本、校内に植えてきた。これは私が四年も育てられた私の学校に、私の愛情を遺しておきたいためであった。なかには私の同級生で、金のあった人はそればかりでは満足しないで、あるいは学校に音楽堂を寄附するもあり、あるいは書籍館を寄附するもあり、あるいは運動場を寄附するもありました。
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自警録・第十五章 逆上を警む・前二例より帰納する感情の危険もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の騒ぎもなく、政治上の腐敗もなく、自治の精神が完全無欠に発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会においても、拳骨の撲り合いが会場の戸口で二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高じて来て、罵詈讒謗に終ったかも知れない。あらゆる犯罪の多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分不体裁はあり得ることである。して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は他山の瓦礫を捕え来たって、自国の璞玉に比してみずから快とするの愚なることを信ずるから、常に他山の石を藉りて自分の玉を磨くの用に供したいと思う。 そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同胞とともに顧みたいことは、一時の激昂に駆られて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情を交えることは危険である。むろん感情と一口に言っても高尚な感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の客気である。とかくこの客気血気があれば考えに誤りを生じやすい。一口に熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど己れを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気象がさかんだとか、あるいは勇敢だとか、痛快だなどと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、御する人があればこそその方向に進んで行くが、御する者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の旺であるのであるが、惜しいかな心を守り、気を抑える力がないのである。古人の曰く、 「この心を敬守すれば則ち心定まる、その気を斂抑すれば則ち気平かなり」と。