自警録 / 第十四章 報酬以上の務め・かかる心がけがあって人生の旅は幸福
建物を建築するに、出来方は同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師職工にいたるまで面白く快く仕事すると、他の一方には軋轢を生じ同僚を擲れとか、某がこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって従事するのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。「細工は流々、仕上を御覧」というが、物件ならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。細工する間の心持ちが大切である。左甚五郎は恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、細工しているあいだも精神を籠めたればこそ、その霊魂が彫刻物にも移ったのであろう。 人世のことは何事にかかわらず微妙なる精神的作用があって、始めて自分の目的が達せられる。かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると見絞り、単に物質的方法のみによって目的が遂げられるというのでは足らぬ。個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して意識なく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。価値なき仕事に目をつけねばならぬ。英語に value という字がある。近ごろの経済学者はこれを価値と訳し、これに less を加うれば価なきもの、二束三文の価もない、つまらぬものという意になる。しかるに物の価は price と称し、学者の価格と訳するものである。これは less を加えれば前例によれば価なきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、その実意味は正反対でとても金銭に換算の出来ぬもの、あまり貴くして金銭に見積もれぬものとの意である。 最初に掲げたローエルの神のみ価なしに得られるというは、神は金銭で買うことが出来ぬというのである。前にいった轎夫の賃銭は金銭で計算されるが、壮丁の僕に対する好意は金銭をもって換算できぬものである。しかしてこれが一番貴重なる務めである。こういう価なしに務めるものがあればこそ、旅行中にも雨曝しの難を免れる。こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる旅路は真の快楽幸福を増すものである。
書き下し
建物を建築するに、出来方は同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師職工にいたるまで面白く快く仕事すると、他の一方には軋轢を生じ同僚を擲れとか、某がこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって従事するのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。「細工は流々、仕上を御覧」というが、物件ならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。細工する間の心持ちが大切である。左甚五郎は恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、細工しているあいだも精神を籠めたればこそ、その霊魂が彫刻物にも移ったのであろう。 人世のことは何事にかかわらず微妙なる精神的作用があって、始めて自分の目的が達せられる。かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると見絞り、単に物質的方法のみによって目的が遂げられるというのでは足らぬ。個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して意識なく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。価値なき仕事に目をつけねばならぬ。英語に value という字がある。近ごろの経済学者はこれを価値と訳し、これに less を加うれば価なきもの、二束三文の価もない、つまらぬものという意になる。しかるに物の価は price と称し、学者の価格と訳するものである。これは less を加えれば前例によれば価なきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、その実意味は正反対でとても金銭に換算の出来ぬもの、あまり貴くして金銭に見積もれぬものとの意である。 最初に掲げたローエルの神のみ価なしに得られるというは、神は金銭で買うことが出来ぬというのである。前にいった轎夫の賃銭は金銭で計算されるが、壮丁の僕に対する好意は金銭をもって換算できぬものである。しかしてこれが一番貴重なる務めである。こういう価なしに務めるものがあればこそ、旅行中にも雨曝しの難を免れる。こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる旅路は真の快楽幸福を増すものである。
現代語訳
建物を建てるとき、できあがりは同じようにできても、作っている間に、ある現場では技師から職人に至るまで面白く気持ちよく仕事をするのと、もう一方では摩擦が生じて、同僚を殴れだの、誰々がこんなことを言っただのと言い、酒を飲ませなければ不平を言って仕事ができないと言って従事するのとでは、できあがりに大きな違いが出る。「細工は流々、仕上げを御覧じろ」というが、物ならば、できあがった仕事が役に立てばそれでよいけれども、人間はそうはいかない。細工をする間の心持ちが大切である。左甚五郎はおそらく仕上げだけに苦心したのではなく、細工をしている間も精神を込めたからこそ、その魂が彫刻にも移ったのだろう。 人の世のことは何事によらず、微妙な精神の働きがあって、はじめて自分の目的が達せられる。こういう事にはこういう方法でやれば足りると見切って、ただ物質的な方法だけで目的が遂げられるというのでは足りない。個々の仕事ならそれでよいかもしれないが、人生の目的という大きな考えは、意識なく機械的に動くだけでは決して達せられない。価値のない仕事に目をつけなければならない。英語に value という語がある。近ごろの経済学者はこれを価値と訳し、これに less を加えれば価値のないもの、二束三文の値打ちもないつまらないものという意味になる。ところが、物の値段は price といい、学者は価格と訳する。これは less を加えれば、前の例によれば価値のないもの、つまらないもののように聞こえるが、実は意味は正反対で、とても金銭に換算できないもの、あまりに貴くて金銭に見積もれないものという意味である。 最初に挙げたローウェルの、神だけが代価なしに得られるという言葉は、神は金銭で買うことができないということである。前に述べた駕籠かきの賃金は金銭で計算できるが、若い従者の私に対する好意は金銭では換算できない。そしてこれが一番貴重な務めである。こういう代価なしに務める者がいるからこそ、旅行中にも雨ざらしの難を免れる。こういう心がけの者が多ければ多いほど、人生という旅路は真の快楽と幸福を増すものである。
解説

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自警録・第十四章 報酬以上の務め・物の真価の誤れる計算法ローエルの有名なる詩中に、 「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。生まるるときは産婆に手数料を払い、死すときは葬儀屋に桶代を払い、死後遺産を譲れば租税を払う、何ものか払わで済まさるべきものかある。ただ自然の美のみは価なしに得らるる恩恵である。三春の長閑なる、咲く花に囀る鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富者も貧者も共に享けて共に喜ぶ権利は異らない」 と説き、さらにまた、 「この世の悪魔の店にあるものは何ものもみな相応の価があって売買されるが、価なしに得らるるものは独り神のみ」 と叫んでいる。実にその通りである。しかし情ないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの報いを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳髄に深く染み込んでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を懐くようになった。ちょうど我々骨董品に何らの心得なき者が、物品そのものの貴賤の程度はさらに分別つかぬが、道具屋に欺かされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに滞留して、教師を雇いフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、件の教師に、 「貴方はスペイン語が読めるか」 と質したとき、 「うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽古するに何百フランを費した」 と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一場の笑話であるが、活世界においては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算盤を採るものがたくさんある。折々老人などが悴の教育のために何千円費したというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手腕人格を含むような印象を与うる。この事は何人にもあることであるが、だれもまた快く思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報瓊の志(2)極く冷淡に事務に従事する人でも、親切に愛嬌または好意を持つと持たぬので自らその務めの捗りも違う。まして近ごろ多くの人が従事する仕事には心尽しの温味があって、始めて完美するものである。してこの好意だの温味だのという部分は、いわば人間の霊魂の一部であって、金銭で酬いるわけに行かぬ。すなわち僕のいう報酬を受けない務めがあって、始めて自分の得つつある報酬に値するものと思う。 とかく献身とか犠牲とかいうと、いかにも高尚に聞こえ、とても我々凡人の及ぶところでないように思われるが、この高尚なる心も我が物となすことができると思う。してその実行はここに述べた俸給以上の働きをするにある。五十円取る人が七十円の仕事を遂ぐれば、二十円は俸給以上の働きである。これを換言して説明すれば、七十円の働きある人が二十円だけ犠牲にし、すなわち二十円ほど献身的に尽したのである。 ただ、「己れを捨つるには、その疑いを処するなかれ。その疑いを処すればすなわち捨を用うるの志多く愧ず。人に施すにはその報を責むるなかれ。その報を責むれば、施すところの心を併せて、ともに非なり」。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・職業に当たる人の三段の区別元来いかなる職業にありても、これに当たる人に三段の区別がある。報酬だけの仕事をせぬすなわち曠職の人。次は報酬に値するだけの務めする人、いくら気づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為すものにあらざれば、払った金も多過ぎるように思う。 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記を雇ったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何人が定めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定められるかと尋ねれば、その標準ははなはだ漠として当てにならぬ。なんとなれば同級生が若干で某所に務めているから若干というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入れぬ。経済学者に言わすれば、これ需要供給の然らしむるところと、大雑把に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌めると、人の問題は死んだ物件の需要供給とは大いに異う。 苟くも人格を有するものには、経済学の教える労銀論は決して当を得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。 「僕は彼と同じく見られて困る」 とか、 「彼らの仲間と同等視されては迷惑である」 とかいうことはしばしば聞くところである。 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴したがるものがある。自分の学力は某と同じであるが、自分の字は子供のときより妙に褒められたといって筆蹟を誇り、あるいは自分の交際術においては、彼らに比べられては困る、硬骨なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。
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自警録・第十七章 実業を精神化せよ・人生を甘からしむる心がけ今まで述べたくだくだしいことを約言すれば、冒頭に掲げた米人の言うごとく、おのおのが潔よい愛情から起算して、(親なり妻なり子なり、最も自分に近いゆえに最も自分に親しい情合いに基づいて)己れの日々の事務を怠らず、百姓は百姓、商人は商人、教師は教師、役人は役人と己れの預っている職務に忠実にして、なおかつ思想は高く俗界を超越して、商人が金を造っても金を目的とせず、農家が肥料を施しても収穫以上に目的を置き、教師が教場に出ても志を遠きに着け、役人が執務するに、俗務のために没却されない、すなわち一言に縮めると、吾人が人格としてまったく世を隔れた思想をいだくと同時に、常に世に対してはいかなる俗務といえどもこれを尽し、わが輩のたびたびいう垂直的関係と平面的関係との調和を始終図って行けば、つまらぬ務めにも深い意味のあることがわかり、また深い意味のある思想がいわゆるつまらぬことにも顕れて、もって人生の味がはなはだ甘きをなすものである。 「軒冕(高貴の人の乗る馬車)の中におれば、山林の気味なかるべからず。林泉(田舎の意)の下に処りては、須らく廊廟(朝廷)の経綸を懐くを要すべし」と。 吾人は、いかなる低き、いわゆる卑しき職に従事しても心一つは高く持ちたい。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬を求むる手段としての務僕の知れる某貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞淑をもって称せられているが、あるとき僕に、 「世間の人は芸妓をたいそう卑しみ、悪く言いますが、私は芸妓よりも卑しいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。芸妓はお世辞を売品とし、彼方此方に振りまき、柔しいことをいうて、その報酬にポチを貰おうとするが、彼らは明さまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。欺される人は、招牌見ないで店に飛び込むようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは貞操を招牌にかけ、むろんポチだの報酬だのを夫より受くべきはずはないが、しかし随分それを強請ろうと思い、衣服を買って貰いたいがために、心にもないことを夫に述べて目的を遂げる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人を欺くもので、神仏の目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに劣ったものと思われましょう」 といわれたが、なになにの報酬を得るがために、事を為すくらい卑しいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官吏でも、月給を得んがために、礼を貰わんがために、ボーナスに与からんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は聖人君子の集会でない、否、十人中九人までは小人である。与うるに利をもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、互いにその積りで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報瓊の志(1)『詩経』に、 「我に投ずるに木瓜を以てせば、之に報ゆるに瓊琚を以てせん」と。 瓊も琚も、玉の名である。人が我に贈るに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なる品をもってすべしとの意で、かえって出来難きことながら、この句は世を渡るに常に心得べきことである。 折々新聞に伝えられる某学者は何千円の俸給を取るが、毎日教場に臨み授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、字引を引いてもちょっと分かるまい、俺が解いてやってもよいが、しかしそれは俺の月給では勿体ない問題である。俺以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。俺の月給が三千円となれば答えるという。 これは一場の戯談に過ぎぬが、ともかくそういう考えが何人にもある。もちろん今述べたごとく、露骨なる形式に現れなくとも、如何ほど地位ある人にも起こり得る思想である。しかし何事を為すにも報酬だけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも劣等なる一部なる欲が入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。よく世間でいうことに、「欲と二人で挊ぐ」というが、報酬のみを得る考えのものは、二人挊ぐのでなく、いわば欲のみ挊いで自分は何もせぬようなものである。