自警録 / 第十四章 報酬以上の務め・物の真価の誤れる計算法
ローエルの有名なる詩中に、 「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。生まるるときは産婆に手数料を払い、死すときは葬儀屋に桶代を払い、死後遺産を譲れば租税を払う、何ものか払わで済まさるべきものかある。ただ自然の美のみは価なしに得らるる恩恵である。三春の長閑なる、咲く花に囀る鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富者も貧者も共に享けて共に喜ぶ権利は異らない」 と説き、さらにまた、 「この世の悪魔の店にあるものは何ものもみな相応の価があって売買されるが、価なしに得らるるものは独り神のみ」 と叫んでいる。実にその通りである。しかし情ないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの報いを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳髄に深く染み込んでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を懐くようになった。ちょうど我々骨董品に何らの心得なき者が、物品そのものの貴賤の程度はさらに分別つかぬが、道具屋に欺かされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに滞留して、教師を雇いフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、件の教師に、 「貴方はスペイン語が読めるか」 と質したとき、 「うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽古するに何百フランを費した」 と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一場の笑話であるが、活世界においては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算盤を採るものがたくさんある。折々老人などが悴の教育のために何千円費したというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手腕人格を含むような印象を与うる。この事は何人にもあることであるが、だれもまた快く思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。
書き下し
ローエルの有名なる詩中に、 「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。生まるるときは産婆に手数料を払い、死すときは葬儀屋に桶代を払い、死後遺産を譲れば租税を払う、何ものか払わで済まさるべきものかある。ただ自然の美のみは価なしに得らるる恩恵である。三春の長閑なる、咲く花に囀る鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富者も貧者も共に享けて共に喜ぶ権利は異らない」 と説き、さらにまた、 「この世の悪魔の店にあるものは何ものもみな相応の価があって売買されるが、価なしに得らるるものは独り神のみ」 と叫んでいる。実にその通りである。しかし情ないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの報いを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳髄に深く染み込んでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を懐くようになった。ちょうど我々骨董品に何らの心得なき者が、物品そのものの貴賤の程度はさらに分別つかぬが、道具屋に欺かされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに滞留して、教師を雇いフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、件の教師に、 「貴方はスペイン語が読めるか」 と質したとき、 「うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽古するに何百フランを費した」 と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一場の笑話であるが、活世界においては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算盤を採るものがたくさんある。折々老人などが悴の教育のために何千円費したというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手腕人格を含むような印象を与うる。この事は何人にもあることであるが、だれもまた快く思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。
現代語訳
ローウェルの有名な詩の中に、 「この世で受けるもの、得るものは、ことごとくそれ相応の値段を払わなければならない。生まれるときは産婆に手数料を払い、死ぬときは葬儀屋に棺代を払い、死後に遺産を譲れば租税を払う。何か払わずに済まされるものがあるだろうか。ただ自然の美だけは、価なしに得られる恵みである。春の穏やかな日、咲く花にさえずる鳥は、人の手の及ばないものばかりで、富める者も貧しい者も、ともに享け、ともに喜ぶ権利は変わらない」 と説き、さらにまた、 「この世の悪魔の店にあるものは、何もかもそれ相応の値がつけられて売買されるが、価なしに得られるものは、ただ神のものだけである」 と叫んでいます。まことにその通りです。ところが情けないことに、私たちはこの世に生まれてから、人と人との関係において、金銭は何らかの報いを払わなければ手に入らないものと、頭に深く染み込んでいます。だから、高く金を出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずに得たものは、安いもの、悪いもの、つまらないものという観念を抱くようになりました。ちょうど、骨董品について何の心得もない者が、品物そのものの貴賤の程度はまったく分からないのに、道具屋にだまされて高い値を払えば良品が手に入ると思うのと少しも変わりません。私が先年フランスに滞在し、教師を雇ってフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、それを読もうとしましたが、私はスペイン語に不案内でしたので、この教師に、 「あなたはスペイン語が読めますか」 と尋ねたところ、 「うん、スペイン語? 私はスペイン語を稽古するのに、何百フランを費やした」 と答えました。どのくらいの書物が読めるかとか、何年研究したかとかを言わないで、すぐに金額の多少で答えたのです。その後、イタリア語について聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがあります。これは一場の笑い話ですが、実際の世界では、あからさまには言わなくても、胸の中ではこういう算盤をはじく者がたくさんいます。ときどき老人などが、せがれの教育のために何千円費やしたと言うのを聞くことがあります。このように何事も金で計算します。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額ではかるようになりはしないかと思われます。 人を批評するのに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に、月給の中にその人の手腕人格が含まれるような印象を与えます。このことは誰にもあることですが、誰もまた快く思わないでしょう。快く思わないながらも、これが人をはかる最も簡便な方法と思われているのです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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本の中身を見るこの章句が説くこと
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