自警録 / 第十四章 報酬以上の務め・報酬以上に務むる教育者
金銭を標準として人を計るの不当なることは、むろんいうまでもない。ゆえにこの標準にて人を計るべきではないが、世人はややもすれば教育に従事するものを計るにもこの標準をもってする。もっともかくいったからとて、僕は教育界以外にはこの標準を応用して差支えないというのでない。他にも応用されるが、ことに教育に従事する人には格別気の毒なりと思う。我が国の小学教師の俸給は非常に低廉で、平均十五円内外である。 お互いの子弟を依頼するは、ただ文字や数学を教えらるるが目的でない。いわば霊魂の教育をお頼みするのである。かかる重大事を十五円の月給取りに頼むことはあまり心もとない。つい乳母や子守を頼むような気になる。しからば教師たるものは何を標準として自己を律するか。自分は実に薄給でありながらよく働く、俥夫さえも月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半額にだも足らぬ。低いものである。したがって自分は子守か乳母の真似をしていればよいと思うか、あるいは自分の預れるものは日本国を負うて立つ後日の国民である。中には貴族の子もあり富豪の愛嬢もあり、また学者の後裔もある。これらの人々を教育し、将来の日本の思想を一新するは自分の考えにあるぞという点に着眼し、俸給の多少、月給の高低などは一向顧みないでやるべきか。 僕は従来地方に行き、よく教師の悪口を忌憚なく吐いた。また教師の中には悪口に値するものも数多ある。しかしだんだん彼らと交あってみると、実に村夫子の中に高い人格を備えた人が、到る所にいるのを見て、心窃に喜んでいる。おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業に比較したら、彼らほど俸給低き、彼らほど思想の高きものはなかろう。僕が彼らをかく賞賛するのは、彼らが報酬以上の務めをなすからである。
書き下し
金銭を標準として人を計るの不当なることは、むろんいうまでもない。ゆえにこの標準にて人を計るべきではないが、世人はややもすれば教育に従事するものを計るにもこの標準をもってする。もっともかくいったからとて、僕は教育界以外にはこの標準を応用して差支えないというのでない。他にも応用されるが、ことに教育に従事する人には格別気の毒なりと思う。我が国の小学教師の俸給は非常に低廉で、平均十五円内外である。 お互いの子弟を依頼するは、ただ文字や数学を教えらるるが目的でない。いわば霊魂の教育をお頼みするのである。かかる重大事を十五円の月給取りに頼むことはあまり心もとない。つい乳母や子守を頼むような気になる。しからば教師たるものは何を標準として自己を律するか。自分は実に薄給でありながらよく働く、俥夫さえも月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半額にだも足らぬ。低いものである。したがって自分は子守か乳母の真似をしていればよいと思うか、あるいは自分の預れるものは日本国を負うて立つ後日の国民である。中には貴族の子もあり富豪の愛嬢もあり、また学者の後裔もある。これらの人々を教育し、将来の日本の思想を一新するは自分の考えにあるぞという点に着眼し、俸給の多少、月給の高低などは一向顧みないでやるべきか。 僕は従来地方に行き、よく教師の悪口を忌憚なく吐いた。また教師の中には悪口に値するものも数多ある。しかしだんだん彼らと交あってみると、実に村夫子の中に高い人格を備えた人が、到る所にいるのを見て、心窃に喜んでいる。おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業に比較したら、彼らほど俸給低き、彼らほど思想の高きものはなかろう。僕が彼らをかく賞賛するのは、彼らが報酬以上の務めをなすからである。
現代語訳
金銭を基準にして人をはかるのが不当なことは、もちろんいうまでもありません。だからこの基準で人をはかってはならないのですが、世間の人は、ともすれば教育に従事する者をはかるのにも、この基準を用います。もっとも、こういったからといって、私は教育界以外にはこの基準を応用して差し支えないというのではありません。他にも応用されますが、とくに教育に従事する人には、格別気の毒だと思います。我が国の小学校教師の俸給はたいへん低く、平均十五円前後です。 私たちが子弟を預けるのは、ただ文字や数学を教えてもらうためではありません。いわば霊魂の教育をお頼みするのです。そのような重大事を十五円の月給取りに頼むのは、あまり心もとない。つい乳母や子守を頼むような気になります。それでは、教師たる者は何を基準に自分を律するのでしょうか。自分は実に薄給なのによく働く、人力車夫でさえ月に三十円、四十円の収入があるのに、自分の給料はその半分にも足りない、低いものだ。したがって自分は子守か乳母の真似をしていればよいと思うか。あるいは、自分の預かっているのは日本国を背負って立つ後日の国民である、中には貴族の子もあり、富豪の愛娘もあり、学者の子孫もいる、これらの人びとを教育し、将来の日本の思想を一新するのは自分の考えにあるのだという点に着眼して、俸給の多少、月給の高低などはいっこうに顧みないでやるべきか。 私は従来、地方に行ってよく教師の悪口を遠慮なく言いました。また教師の中には、悪口に値する者も数多くいます。けれども、だんだん彼らと交わってみると、実に村の先生の中に、高い人格をそなえた人が、至る所にいるのを見て、ひそかに喜んでいます。おそらく教師を一つの職業とみなして、他の職業と比較したら、彼らほど俸給が低く、彼らほど思想の高い者はないでしょう。私が彼らをこのように賞賛するのは、彼らが報酬以上の務めをするからです。
解説

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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬を求むる手段としての務僕の知れる某貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞淑をもって称せられているが、あるとき僕に、 「世間の人は芸妓をたいそう卑しみ、悪く言いますが、私は芸妓よりも卑しいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。芸妓はお世辞を売品とし、彼方此方に振りまき、柔しいことをいうて、その報酬にポチを貰おうとするが、彼らは明さまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。欺される人は、招牌見ないで店に飛び込むようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは貞操を招牌にかけ、むろんポチだの報酬だのを夫より受くべきはずはないが、しかし随分それを強請ろうと思い、衣服を買って貰いたいがために、心にもないことを夫に述べて目的を遂げる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人を欺くもので、神仏の目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに劣ったものと思われましょう」 といわれたが、なになにの報酬を得るがために、事を為すくらい卑しいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官吏でも、月給を得んがために、礼を貰わんがために、ボーナスに与からんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は聖人君子の集会でない、否、十人中九人までは小人である。与うるに利をもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、互いにその積りで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・職業に当たる人の三段の区別元来いかなる職業にありても、これに当たる人に三段の区別がある。報酬だけの仕事をせぬすなわち曠職の人。次は報酬に値するだけの務めする人、いくら気づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為すものにあらざれば、払った金も多過ぎるように思う。 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記を雇ったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何人が定めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定められるかと尋ねれば、その標準ははなはだ漠として当てにならぬ。なんとなれば同級生が若干で某所に務めているから若干というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入れぬ。経済学者に言わすれば、これ需要供給の然らしむるところと、大雑把に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌めると、人の問題は死んだ物件の需要供給とは大いに異う。 苟くも人格を有するものには、経済学の教える労銀論は決して当を得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。 「僕は彼と同じく見られて困る」 とか、 「彼らの仲間と同等視されては迷惑である」 とかいうことはしばしば聞くところである。 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴したがるものがある。自分の学力は某と同じであるが、自分の字は子供のときより妙に褒められたといって筆蹟を誇り、あるいは自分の交際術においては、彼らに比べられては困る、硬骨なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬以上の務めの真義各自の職務には分限があって、その範囲を脱するをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその手腕を揮わんとしても職権以外に出られぬ。ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。 職務の分量に止まらずして職務の品性をよくせよというのである。十貫目の荷物を荷うものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。もっとも荷っても身体に差支えなく、またために全体に悪影響の及ぶ憂いがなければ、それも差支えあるまいけれども、なんらかの事由のために各自の重荷は十貫目を超えてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上を荷えとは勧めぬ。しかし十貫目を荷うに苦い顔せず、喜んで荷いたい。荷うさまを綺麗にし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目担げといえば、なるべく品よいものを担げというのである。 かく比喩をもってしては、あるいは意味が解らぬか知らぬが、譬を変えていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間には苦い顔せず、また叱ったり不愉快な風に教えないで、愉快にこれを教えたいのである。また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。出勤簿には、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、苦い顔して教えても嬉しい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。 この事は決して教員に限ることでない。役所や会社においても執務時間に、机の前に腰かけるだけは誰も同様であるが、実際仕事を捌くについても、ぶつぶつ囁きながらすると、快活にやるとは仕事の分量において異いはなくとも、その品質と、同僚に及ぼす感情には雲泥の差を起こす。仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。 「施して必ず報ある者は、天地の定理なり。仁人之を述べて以て人に勧む。施して報を望まざる者は、聖賢の盛心なり。君子之を存して以て世を済う」。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報瓊の志(2)極く冷淡に事務に従事する人でも、親切に愛嬌または好意を持つと持たぬので自らその務めの捗りも違う。まして近ごろ多くの人が従事する仕事には心尽しの温味があって、始めて完美するものである。してこの好意だの温味だのという部分は、いわば人間の霊魂の一部であって、金銭で酬いるわけに行かぬ。すなわち僕のいう報酬を受けない務めがあって、始めて自分の得つつある報酬に値するものと思う。 とかく献身とか犠牲とかいうと、いかにも高尚に聞こえ、とても我々凡人の及ぶところでないように思われるが、この高尚なる心も我が物となすことができると思う。してその実行はここに述べた俸給以上の働きをするにある。五十円取る人が七十円の仕事を遂ぐれば、二十円は俸給以上の働きである。これを換言して説明すれば、七十円の働きある人が二十円だけ犠牲にし、すなわち二十円ほど献身的に尽したのである。 ただ、「己れを捨つるには、その疑いを処するなかれ。その疑いを処すればすなわち捨を用うるの志多く愧ず。人に施すにはその報を責むるなかれ。その報を責むれば、施すところの心を併せて、ともに非なり」。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報瓊の志(1)『詩経』に、 「我に投ずるに木瓜を以てせば、之に報ゆるに瓊琚を以てせん」と。 瓊も琚も、玉の名である。人が我に贈るに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なる品をもってすべしとの意で、かえって出来難きことながら、この句は世を渡るに常に心得べきことである。 折々新聞に伝えられる某学者は何千円の俸給を取るが、毎日教場に臨み授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、字引を引いてもちょっと分かるまい、俺が解いてやってもよいが、しかしそれは俺の月給では勿体ない問題である。俺以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。俺の月給が三千円となれば答えるという。 これは一場の戯談に過ぎぬが、ともかくそういう考えが何人にもある。もちろん今述べたごとく、露骨なる形式に現れなくとも、如何ほど地位ある人にも起こり得る思想である。しかし何事を為すにも報酬だけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも劣等なる一部なる欲が入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。よく世間でいうことに、「欲と二人で挊ぐ」というが、報酬のみを得る考えのものは、二人挊ぐのでなく、いわば欲のみ挊いで自分は何もせぬようなものである。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・物の真価の誤れる計算法ローエルの有名なる詩中に、 「この世の中で受けるもの、得るものはことごとくそれ相応の値段を払わざるを得ない。生まるるときは産婆に手数料を払い、死すときは葬儀屋に桶代を払い、死後遺産を譲れば租税を払う、何ものか払わで済まさるべきものかある。ただ自然の美のみは価なしに得らるる恩恵である。三春の長閑なる、咲く花に囀る鳥は人工のとても及ばぬものばかりで、富者も貧者も共に享けて共に喜ぶ権利は異らない」 と説き、さらにまた、 「この世の悪魔の店にあるものは何ものもみな相応の価があって売買されるが、価なしに得らるるものは独り神のみ」 と叫んでいる。実にその通りである。しかし情ないことには、我々はこの世に生まれてから、人と人との関係において金銭は何らかの報いを払うにあらざれば手にし得られぬものと、脳髄に深く染み込んでいる。ゆえに高く金さえ出せば出すほど良いものが得られ、金を出さずして得るものは安いもの悪いもの、つまらぬものという観念を懐くようになった。ちょうど我々骨董品に何らの心得なき者が、物品そのものの貴賤の程度はさらに分別つかぬが、道具屋に欺かされて高価を出せば良品が手に入ると思うのと少しも変わらぬ。僕が前年フランスに滞留して、教師を雇いフランス語を練習していたころ、農政に関するスペインの書を入手し、これを読もうとしたが、僕はスペイン語に不案内であったから、件の教師に、 「貴方はスペイン語が読めるか」 と質したとき、 「うんスペイン語? 僕はスペイン語を稽古するに何百フランを費した」 と答えた。どのくらいの書籍が読めるとか、何年研究したとかをいわないで、すぐに金額の多少をもって答えた。その後、イタリア語に関して聞いたときにも、同じ意味の返事を受けたことがある。これは一場の笑話であるが、活世界においては、あからさまにいわなくとも、胸中ではこういう算盤を採るものがたくさんある。折々老人などが悴の教育のために何千円費したというを聞くことがある。かく何事も金で計算する。人の働きはいうまでもなく、人格さえも金額で計るようになりはせぬかと思われる。 人を批評するに、彼の月給はいくらであると言い、聞く人に月給の中にその人の手腕人格を含むような印象を与うる。この事は何人にもあることであるが、だれもまた快く思わぬであろう。快く思わぬながらも、これが人を計るに最も簡便なる方法と思われている。