自警録 / 第一章 男一匹・神と獣類の間に立つ人
外国語では人という名詞をただちに男に代用するが、わが国において人というのは西洋のいわゆるペルソン(人格)を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。しかしてこの人なる語はあるいは高尚な意味に用いることもあれば、またすこぶる野卑なる意味を含ませることもある。たとえば、 「人と生まれてかかる事をするのは恥である」 という場合に用いられた人は、万物の霊長であり、したがって廉恥心も自然に備わっているものなれば、よろしく自ら重んずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の尊重すべきを示したものである。しかるにこれに反し、 「どうせ人間だもの、このくらいのことをするのは当然だ」 という口調を放つときは、神ならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの罪業をするのは免れぬと、半獣性の欠点に富めることをいいあらわすに用いられる。かくのごとく人間といえば上は神、下は獣類のあいだに介在するものであるから、両者の性質を兼備し、自分の勝手で都合よきほうに較べ、ある時はみずから尊者の敬称を甘んじて受け、またある時はみずから野卑と称するほど謙遜る。信玄の歌に、 人多き人の中にぞ人ぞなき、人となれ人、人となせ人 とあるは、ある人の歌に、 人はたゞ人とならねば人ならず、人となれ人、人となせ人 とあると同じく「人」なる観念を二つにしていることが明らかである。すなわち「人」なる字が善悪の二様に用いられている。
書き下し
外国語では人という名詞をただちに男に代用するが、わが国において人というのは西洋のいわゆるペルソン(人格)を指し、ただちに性の区別をいいあらわさない。しかしてこの人なる語はあるいは高尚な意味に用いることもあれば、またすこぶる野卑なる意味を含ませることもある。たとえば、 「人と生まれてかかる事をするのは恥である」 という場合に用いられた人は、万物の霊長であり、したがって廉恥心も自然に備わっているものなれば、よろしく自ら重んずべきものなりとの意味をいいあらわし、動物に対して人の尊重すべきを示したものである。しかるにこれに反し、 「どうせ人間だもの、このくらいのことをするのは当然だ」 という口調を放つときは、神ならぬわれわれは肉も血もあり、多くの弱点を備うるものなれば、時にこれしきの罪業をするのは免れぬと、半獣性の欠点に富めることをいいあらわすに用いられる。かくのごとく人間といえば上は神、下は獣類のあいだに介在するものであるから、両者の性質を兼備し、自分の勝手で都合よきほうに較べ、ある時はみずから尊者の敬称を甘んじて受け、またある時はみずから野卑と称するほど謙遜る。信玄の歌に、 人多き人の中にぞ人ぞなき、人となれ人、人となせ人 とあるは、ある人の歌に、 人はたゞ人とならねば人ならず、人となれ人、人となせ人 とあると同じく「人」なる観念を二つにしていることが明らかである。すなわち「人」なる字が善悪の二様に用いられている。
現代語訳
外国語では「人」という名詞をそのまま「男」の意味に使いますが、日本で「人」と言えば、西洋でいうペルソン(人格)を指し、性の区別をそのまま表すことはありません。そしてこの「人」という語は、高尚な意味に使われることもあれば、ひどく野卑な意味を含ませて使われることもあります。たとえば、 「人と生まれてこんなことをするのは恥だ」 と言う場合の「人」は、万物の霊長であり、したがって恥を知る心も自然に備わっているのだから、自らを重んじるべきだという意味を表し、動物に対して人の尊さを示したものです。ところがこれに反して、 「どうせ人間だもの、このくらいのことをするのは当然だ」 という口ぶりのときは、神ではない私たちは肉も血もあり、多くの弱点を備えているのだから、時にこの程度の罪を犯すのは避けられない、と半ば獣に近い欠点の多さを言い表すのに使われます。このように人間は、上は神、下は獣のあいだに介在するもので、両方の性質を兼ね備えています。そこで自分の都合のよいほうに引き寄せて、あるときは尊者の敬称を平気で受け、あるときは自分を野卑だと言うほどへりくだるのです。信玄の歌に、 人の多い人の中にも、人と呼べる人はいない。人となれ、人よ。人をつくれ、人よ。 とあるのも、ある人の歌に、 人はただ人とならなければ人ではない。人となれ、人よ。人をつくれ、人よ。 とあるのと同じく、「人」という観念を二つに分けています。つまり「人」の字が、善悪二通りの意味に用いられているのです。
解説

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