自警録 / 第十三章 広く世を渡る心がけ・好き嫌いと善悪とは違う
子供が事柄について判断を下すを見るに、事の曲直、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好き嫌いという立場から判断する。また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。「もちろん悪いとは知っていますが、どういう因果でありますか、これが私の嗜みです」ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し遠慮斟酌する言葉に過ぎぬのである。 「何の因果で」とか、「前世の約束」とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、己れの嫌うものこそ善である、またその順序を顛倒して善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の主観的作用と事物の客観的価値と一致しないゆえである。この傾向は決して独り婦人子供のみに限らない。大人にもあり、しかも学者または識者にもあることである。自然といえばそれだけで済むようなものの、ややもすればこれがために人を害し、また己れをも傷つける危険がはなはだ多い。 婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を来す憂いはない。ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を経たり、あるいは若い者でも少し思慮を深く用うる者であれば、この過ちに陥ることは少ない。必ずしも、世間通りに従う理由はない。もしなにもかも唯々諾々と、世の風潮によるならば、進歩することはなくなる。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推遷るのが、自分のためかつ世間のためであろう。すなわち社会の安寧はそれで持って行く。 世の中の人に心を合せけん水と魚とを見るにつけても しかるに何事についても消極的に世に処すれば、どれほど広き世間もただただ狭苦しくなるのみで、 世の中が四尺五寸になりにけり五尺のからだ置き所なし と嘆くにいたるであろう。
書き下し
子供が事柄について判断を下すを見るに、事の曲直、物の善悪をそのままに見ることはほとんどなく、たいがい頭から好き嫌いという立場から判断する。また普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならばただちにこれを善きものと思い、自分の嫌いなものならばすなわち悪いとみなす。「もちろん悪いとは知っていますが、どういう因果でありますか、これが私の嗜みです」ということは、常に聞くことなるも、かくのごとき申し訳は人に対し遠慮斟酌する言葉に過ぎぬのである。 「何の因果で」とか、「前世の約束」とかいう句のうちには、すでに自分の好むものは悪であり、己れの嫌うものこそ善である、またその順序を顛倒して善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好むということを認めたもので、これは心の主観的作用と事物の客観的価値と一致しないゆえである。この傾向は決して独り婦人子供のみに限らない。大人にもあり、しかも学者または識者にもあることである。自然といえばそれだけで済むようなものの、ややもすればこれがために人を害し、また己れをも傷つける危険がはなはだ多い。 婦人子供のみならず、大人にも主観と客観とを混同する者が多いといったが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大なる人ならば、右のごとき混同を来す憂いはない。ゆえに一般の教育が進むにつけ、あるいは個人が年とりて種々な経験を経たり、あるいは若い者でも少し思慮を深く用うる者であれば、この過ちに陥ることは少ない。必ずしも、世間通りに従う理由はない。もしなにもかも唯々諾々と、世の風潮によるならば、進歩することはなくなる。しかし争うほどの事ならざる以上は世と共に推遷るのが、自分のためかつ世間のためであろう。すなわち社会の安寧はそれで持って行く。 世の中の人に心を合せけん水と魚とを見るにつけても しかるに何事についても消極的に世に処すれば、どれほど広き世間もただただ狭苦しくなるのみで、 世の中が四尺五寸になりにけり五尺のからだ置き所なし と嘆くにいたるであろう。
現代語訳
子どもが物事について判断を下すのを見ると、事の曲直、物の善悪をそのまま見ることはほとんどなく、たいてい頭から、好き嫌いという立場で判断します。普通の婦人を見ても同じことで、自分の好きなことならすぐにそれを善いものと思い、自分の嫌いなものならすなわち悪いとみなします。「もちろん悪いとは知っていますが、どういう因果でしょう、これが私のたしなみです」ということは、常に聞きますが、このような言い訳は、人に対して遠慮し斟酌する言葉にすぎません。 「何の因果で」とか「前世の約束」とかいう句のうちには、すでに、自分の好むものは悪であり、自分の嫌うものこそ善である、あるいはその順序を逆にして、善なるものを自分は嫌い、悪なるものを自分は好む、ということを認めています。これは、心の主観的な作用と、事物の客観的な価値とが一致しないためです。この傾向は決して婦人や子どもだけに限りません。大人にもあり、しかも学者や識者にもあることです。自然のことといえばそれで済むようなものの、ややもすればこのために人を害し、また自分をも傷つける危険がはなはだ多いのです。 婦人や子どもだけでなく、大人にも主観と客観を混同する者が多いと言いましたが、最もよく理性の発達した人、あるいは心の寛大な人なら、そのような混同を起こす心配はありません。だから、一般の教育が進むにつれて、あるいは個人が年を取って種々の経験を経たり、若い者でも少し思慮を深く用いる者であれば、この過ちに陥ることは少なくなります。必ずしも世間の通りに従う理由はありません。もしなにもかも唯々諾々と世の風潮に従うなら、進歩はなくなります。しかし、争うほどのことでない以上は、世とともに移り変わるのが、自分のためであり世間のためでもあるでしょう。つまり社会の安寧はそれで保たれます。 世の中の人に心を合わせたのだろうか、水と魚とを見るにつけても ところが何事についても消極的に世を渡れば、どんなに広い世間もただ狭苦しいだけになって、 世の中が四尺五寸になってしまった、五尺の体の置き所がない と嘆くことになるでしょう。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・修身・惡を為すに勉強無く、善を為すに自然無し惡を為すには再び個の勉強底沒く、善を為すには再び個の自然底沒し。學者此の念頭を勘破せば、寧ぞ愧ぢ奮はざらんや。
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『酔古堂剣掃』集醒・善を為して人の知るを急ぐ惡を為して人の知るを畏るるは、惡中に猶ほ善念有り。善を為して人の知るを急ぐは、善處即ち是れ惡根なり。
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『格言聯璧』悖凶類・何を苦しみて必ず惡を為す使し惡を為して父母之を愛し、兄弟之を悅び、子孫之を榮とし、宗族鄉黨之を敬信せば、此の如くにして惡を為すは、可なり。 惡を為せば則ち父母之を怒り、兄弟之を怨み、子孫之を羞ぢ、宗族鄉黨之を賤しみ惡む、何を苦しみて必ず惡を為す。
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『初学訓』巻之五一尚書に、善をすれば、天より百の祥を降し、不善をすれば、百の禍を降し給ふといへり。又、善悪のむくい、影の形に随ひ、響の音に応ずるが如く、必ず其しるし有ることを、聖人説き給ふ。又、天道は善に福し、淫に禍すといへり。天より、善人には福をあたへ、悪人には禍し給ふなり。易にも、積善の家には、必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃ありといへり。久しく善をつめる家にはさいはひ多く、久しく悪をつめる家には禍多しといふ意なり。是、天道の常理なることを説き給ふ。是皆、聖人のをしへなれば、いつはり違あるべからず。必ず其しるしあり、疑ふべからず。又古語に、天道は好還といへり。天道は、善人に幸し悪人に禍し給ふ道理にて、善悪ともに、必ず其報を好み給ふを、かへすことを好むといへり。
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『正法眼蔵随聞記』巻四文に云く、ほめて白品の中にあるを善と云ふ、そしりて黒品の中におくを悪と云ふと、亦云く、苦を受くべきを悪と云ふ、楽をまねくべきを善と云ふと、かくの如く子細に分別して、真実の善を見て行し、真実の悪を見てすつべきなり、僧は清浄の中より来れるものなれば、人の欲を起すまじきものを以てよしとし、きよきとするなり、示して云く、
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『呻吟語』外篇・人情・鬼神に罪を得る者人の善を聞きて之を掩覆し、或いは文致して以て其の心を誣ふ。人の過ちを聞きて之を播揚し、或いは枝葉して以て其の罪を多くす。此れ皆な鬼神に罪を得る者なり。吾が黨之を戒めよ。