自警録 / 第十二章 人生表裏の判断・人の性質上の表裏
しからば表は礼儀、裏は礼を省いた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。聖賢と言わるる人は家にありて、言葉遣いも苟くもせず、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の主義で、七歳以上は自分の娘でも同座せず、しかして早朝より裃をつけて四角四面に端座しているか。かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に不憫なものであり、また父たるその人もゆるりと寛ぐ場所も時間もなく、さなきだに重荷を荷う人生において、かかる態度は重荷の上にがらくた荷を一層積むようなものである。礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は無礼不儀なりとは言われぬ。裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。 人の性質においてもまた同じような表裏がある。しかしてこの人となりの表裏は、他の事柄と異って、一も二もなく卑しきもののように思われる。あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、あてにならぬ偽君子なりと解せられる。これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。 我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。たとえば無骨一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して追分を唄う、これも一つの表裏ではあるまいか。また髯もやもやの鹿爪らしき爺が娘の結婚の席上で舞を舞いて祝うことがある。無骨一偏の者が測らぬ時に優しき歌を詠うとか、石部金吉と思われた者に艶聞があるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。しかしこれあるは決して矛盾でない、あるこそ当然である。またこれあるところに人生の興味が深いのである。すなわちある意味においてこの類の表裏ならば奨励したいくらいなものである。
書き下し
しからば表は礼儀、裏は礼を省いた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。聖賢と言わるる人は家にありて、言葉遣いも苟くもせず、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の主義で、七歳以上は自分の娘でも同座せず、しかして早朝より裃をつけて四角四面に端座しているか。かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に不憫なものであり、また父たるその人もゆるりと寛ぐ場所も時間もなく、さなきだに重荷を荷う人生において、かかる態度は重荷の上にがらくた荷を一層積むようなものである。礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は無礼不儀なりとは言われぬ。裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。 人の性質においてもまた同じような表裏がある。しかしてこの人となりの表裏は、他の事柄と異って、一も二もなく卑しきもののように思われる。あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、あてにならぬ偽君子なりと解せられる。これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。 我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。たとえば無骨一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して追分を唄う、これも一つの表裏ではあるまいか。また髯もやもやの鹿爪らしき爺が娘の結婚の席上で舞を舞いて祝うことがある。無骨一偏の者が測らぬ時に優しき歌を詠うとか、石部金吉と思われた者に艶聞があるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。しかしこれあるは決して矛盾でない、あるこそ当然である。またこれあるところに人生の興味が深いのである。すなわちある意味においてこの類の表裏ならば奨励したいくらいなものである。
現代語訳
それなら、表は礼儀、裏は礼を省いたことだとして、家にいるときも、裏ではなく表でいたとしたらどうでしょう。聖賢といわれる人は、家にいても言葉遣いをおろそかにせず、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の主義で、七歳を過ぎたら自分の娘とも同席せず、早朝から裃をつけて四角四面に端座しているのでしょうか。そんな人がはたして理想の人でしょうか。そういう人を父に持った者は、まことに気の毒ですし、また父であるその人自身も、ゆったりくつろぐ場所も時間もなく、ただでさえ重荷を負う人生において、そうした態度は、重荷の上にがらくたの荷をさらに積むようなものです。礼儀正しいことが人生の表だとするなら、裏は無礼不作法だとはいえません。裏は礼を略し、儀式を除くにすぎないのです。 人の性質にも同じような表裏があります。そして、この人柄の表裏は、他のことと違って、一も二もなく卑しいもののように思われます。あの男は表裏があるという一言で、ほかのことは聞くまでもなく、あてにならない偽君子だと解されます。これは言葉の使いようがそういう意味になってしまったまでで、私も言葉の使い方を改めよと主張するわけではありませんが、人の性質には、道徳的な意味のほかに表裏があることを、記憶しておかなければならないと思います。 私たちは、友人の中に、時々新しい事実を発見して驚くことがあります。たとえば、無骨一辺倒の人だと思っていた者が、意外にも美しい声で追分節を歌う。これも一つの表裏ではないでしょうか。また、ひげもじゃの、いかめしい老人が、娘の結婚の席で舞を舞って祝うことがあります。無骨一辺倒の者が思いがけないときにやさしい歌を詠むとか、石部金吉と思われた者に艶聞があるとか、いずれも人生の表裏ではないでしょうか。しかしこれは決して矛盾ではなく、あるのが当然です。またこれがあるところに、人生の興味が深いのです。つまり、ある意味でこの種の表裏なら、奨励したいくらいです。
解説

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『政談』內曲輪外曲輪御門番の事内曲輪にて供の者に笠を脱かする事内曲輪外曲輪の御門にては笠を脱がすへし、馬乗は片鐙を外つし、乗物は女中病人の外は戸を明くへし、箱根等の関所にてさへ辞儀有り、畢竟御城の廓門なる故礼儀斯の如くなるへし、古礼には公門に式すと云ふこと有るなり、近頃内曲輪にて供のものに日照笠をかふらせさすこと是れは聞えさること也、惣して供のものゝ日照笠をかふると云ふこと昔はなきことなり、御先々前御代に下々の炎天に頭を照らせらるゝを不憫に思召して上意あるより、承り伝へ人々炎天に笠をかふせたり、されとも屹としたる仰渡れもなけれは、二三年の間はかふらするものもあり、かふらせぬものもあり、その主人〳〵の心次第也、後は一同に風俗となりてかふせたり、されとも其主人かふれと云はされは下々もかふらす、是れ元来己か主人への礼儀にてかふらぬと云ふ事を下々も知りて斯の如し、屹としたる仰渡されなとも元来かふらぬこと故、飛越して公儀より仰渡さるゝ筋にもあらす、
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孟子・離婁章句上樂正子、子敖に從いて齊に之く。樂正子、孟子に見ゆ。孟子曰く、「子も亦た來たりて我を見るか。」曰く、「先生何為れぞ此の言を出だすや。」曰く、「子來たること幾日ぞ。」曰く、「昔者なり。」曰く、「昔者ならば、則ち我、此の言を出だすも、亦た宜ならずや。」曰く、「舍館未だ定まらざればなり。」曰く、「子、之を聞けりや。舍館定まりて、然る後に長者に見ゆることを求むるか。」曰く、「克、罪有り。」 <語釈> ○「樂正子」、趙注:魯の人樂正克、孟子の弟子なり、齊の右師子敖に從う、子敖、使いして魯に之く、樂正子、之に随い、來たりて齊に之く。○「昔者」、趙注:「昔者」は往なり、數日の閒を謂う。
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