自警録 / 第十二章 人生表裏の判断・人生に表裏あるはむしろ当然
人間の生計あるいは生活あるいは品行においていわゆる表裏(ことにいわゆるなる文字を使うことに注意を促したい)あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを奨励せんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と非難する中には、往々にして非難に値せぬものがある。むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば塩物と香の物ぐらいで済まされるが、突然の来客でもあれば、急に刺身とか茶碗蒸しとかを注文する。これは生計上の表裏ではないか。 また家庭にありて一家団欒している際は、寒ければ綿袍を着ても用が足り、主人も気楽なれば細君も衣服の節倹なりと喜ぶが、ふと客があれば急に紋付に取替える。これも生活上における表裏の一つではないか。かく時に応じてその態度を改むることは、強いて偽君子の行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに綿袍を着て行き、夏の日に真裸で行くものはあるまい。かくのごときは物に表裏あることを弁えぬので、かえって世の秩序を紊すものである。 世にはとかく、天真爛漫などと称し、世に行わるる作法に反するをもって快しとするものがある。かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を振舞って得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提に捉われたるより起こる誤解であって、幽明の区別を論ずる者が、幽とか暗とか称すれば、それだけで悪感をいだき、明といえばそれだけで善良と信ずるに等しい。しかし暗夜は暗夜の徳あって、孟子のいわゆる「夜気」は暗黒の賜である。古の学者の言に、「好悪の良は夜気に萠す」と。
書き下し
人間の生計あるいは生活あるいは品行においていわゆる表裏(ことにいわゆるなる文字を使うことに注意を促したい)あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを奨励せんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と非難する中には、往々にして非難に値せぬものがある。むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば塩物と香の物ぐらいで済まされるが、突然の来客でもあれば、急に刺身とか茶碗蒸しとかを注文する。これは生計上の表裏ではないか。 また家庭にありて一家団欒している際は、寒ければ綿袍を着ても用が足り、主人も気楽なれば細君も衣服の節倹なりと喜ぶが、ふと客があれば急に紋付に取替える。これも生活上における表裏の一つではないか。かく時に応じてその態度を改むることは、強いて偽君子の行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに綿袍を着て行き、夏の日に真裸で行くものはあるまい。かくのごときは物に表裏あることを弁えぬので、かえって世の秩序を紊すものである。 世にはとかく、天真爛漫などと称し、世に行わるる作法に反するをもって快しとするものがある。かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を振舞って得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提に捉われたるより起こる誤解であって、幽明の区別を論ずる者が、幽とか暗とか称すれば、それだけで悪感をいだき、明といえばそれだけで善良と信ずるに等しい。しかし暗夜は暗夜の徳あって、孟子のいわゆる「夜気」は暗黒の賜である。古の学者の言に、「好悪の良は夜気に萠す」と。
現代語訳
人間の生計や生活、あるいは品行において、いわゆる表裏があること(ここでは「いわゆる」という文字を使っていることに注意してほしいのですが)は、一家の門に表と裏の二つがあるのと同じ事情の場合がたくさんあります。私は、どんな場合でも表裏があるのはやむを得ないといって、それを奨励しようというのではありませんが、攻撃的に表裏だ表裏だと非難するもののうちには、しばしば非難に値しないものがあります。むしろ表裏があるのが当然で、表裏がなければ、自分や他人にはなはだしく迷惑をかけることもあると思います。たとえば日常の生活を見ると、家族だけで食事するなら塩物と漬物くらいで済ませますが、突然の来客でもあれば、急に刺身とか茶碗蒸しとかを注文します。これは暮らしの上での表裏ではないでしょうか。 また家庭で一家団欒しているときは、寒ければ綿入れの羽織を着ていても用が足り、主人も気楽で、奥さんも衣服の節約になると喜びますが、ふと客があれば、急に紋付に着替えます。これも生活上の表裏の一つではないでしょうか。このように時に応じて態度を改めることは、無理に偽君子の行為というよりは、むしろ世の中の普通の礼です。表裏の区別をまったく無視しようとして、会社や役所に出勤するのに綿入れを着て行ったり、夏の日に真っ裸で行ったりする人はいないでしょう。そういうことは、物に表裏があることを弁えないもので、かえって世の秩序を乱すものです。 世の中には、とかく天真爛漫などと称して、世に行われている作法に反することを快いとする者がいます。そういう人は、自分には表裏がないと誇って、無礼なふるまいを得意がりますが、これは表は善で裏は悪だという前提にとらわれて起こる誤解で、幽と明の区別を論じる者が、幽とか暗とかいえばそれだけで悪い感じを抱き、明といえばそれだけで善良だと信じるのと同じです。しかし、暗い夜には暗い夜の徳があり、孟子のいう「夜気」は暗黒の賜物です。昔の学者の言葉に、「好悪の良は夜気に萌す」とあります。
解説

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『五常訓』巻之四・礼本立てば末は是より出づる理なり。末のみ修りて、本なきは、誠なくして、礼の道たたず。喪の礼は、ことさら真実ならでは行はれざるものなれば、既に礼の本を説きて、又其内より、喪の礼の本をかかげ出して説き給ふ。
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『五常訓』巻之四・礼一朱子曰、礼は即理の節文なり。いふ意は、万の行、道理にかなひて、過不及なく、程よきを云ふ。飲食の一事をいはば、うゑかわく時に飲み食ふは理なり。されども、飲み食ふべき理なりとて、みだりに多く飲み食へば、放逸にして、みだりがはしく、又必病を生ず。飲み食ふべき理にあたりて、過不及なく、よき程なるが、理の節文なり。万の事、是を以て知るべし。
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『弁名』禮礼は道の名なり。先王の制作する所の四教・六芸、是れ其の一に居る。所謂経礼三百、威儀三千、是れ其の物なり。六芸は、書・数は庶人の官に在る者、府・史・胥・徒の専ら務むる所と為す。御も亦た士の職とする所なり。射は諸侯に通ずと雖も、其の所謂射は、礼楽を以て之を行ふ、民の射の皮を主とする者の比に非ず。唯だ礼楽のみ乃ち芸の大なる者にして、君子の務むる所なり。而して楽は伶官に掌られ、君子以て徳を養ふのみ。礼に至りては則ち君子此を以て顕業と為す。是を以て孔子少くして礼を知るを以て称せられ、周に之きて礼を老聃に問ひ、杞に之き宋に之き、唯だ礼を之れ求む。子夏の記す所、曾子の問ふ所、七十子皆礼に断断たり。檀弓の諸篇に見ゆ。三代の君子の礼を務むる、以て見るべきのみ。
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『五常訓』巻之四・礼一威儀をつつしみ、衣冠を正しくし、視ること、聴くこと、言ふこと、動くことの四事につきて、各過不及なく、よき程の法あり。又親につかへ、君につかふるに、各さだまれる法あり。兄弟、夫婦に対し、賓客にまじはり、臣下に対し、民をつかひ、先祖鬼神をまつるも法あり。是礼は、皆天理のよき程なる節文にして、人事の定まれる作法なり。仁義皆理なりといへども、とりわき礼を理といへるに子細あり。理とは行ふべきすぢめなり。万事を行ふに、皆定まりたる作法あり。是人の行ふべきすぢめなり。是即礼なり。ここを以て聖人の説き給へる礼の字は、理の字にあたれり。然れども理といはずして礼といへるに、子細あり。理といへば形と事にあらはれたる迹なくして、虚なり。
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『弁名』禮是の礼楽の教は、黙して之を識るに在りと雖も、然れども人の知、至る有り、至らざる有り。故に孔子時有りてか、一隅を挙げて以て其の義を語る。義とは先王の礼を制する所以の義、戴記に載する所皆是れのみ。祇だ人の知、至る有り、至らざる有り。故に七十子の先王を信ずる、孔子の先王を信ずるに及ばず。其の人の七十子を信ずるも、亦た七十子の孔子を信ずるに及ばず。故に其の人に喩さんと欲するの急なる、其の義を論説して已まず。日に以て蔓衍し、以て戦国の時に至りて、義遂に礼を離れて孤行し、復た礼に就きて其の義を言はず。孟子の書を観て見るべきのみ。此れより其の後、古を去ること益〻遠く、義理の説益〻盛んに、囂然として以て天下を乱し、先王・孔子の教、蕩乎として尽く。悲しいかな。