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自警録 / 第九章 心の独立と体の独立・身は縛られても心は独立

凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたる虞がある。先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえ擲らるるままに恥を忍んで去った。今にしてこれを顧みれば気の毒だと思う。さりとてまったく余の奴隷にならなかったのは、翌日相当の礼を述べ下宿を代えたからである。彼に転宿する余裕ありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます根性が卑屈となる。折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が堅固なりと思うあいだは随分勝手な口をきき、いつ辞めても天下を濶歩する意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことを噂するにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。 かくいったからとて人間の心の中に唯物的拝金的卑屈なる根性があって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。五斗米のために身を屈しても身を枉げても、心はどこまでも直立独歩する者もある。むかし耶蘇教の弟子パウロは新しき宗教を奉じた咎をもって捕縛せられ笞うたれ、獄に投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、傷だらけの体を縛られたまま、 「我は実にみずから幸福なものと思う。願わくは殿下もこの繩を除いてはまったく我の如くあられんことを」 といった。この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。 またむかし武田勝頼が三河の長篠城を囲み、城中食尽きもはや旬日を支え得なかった時、鳥居強右衛門が万苦を冒して重囲を潜り、徳川家康に見えて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍に擒えられ、城に向かい、援軍来らぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主公の大軍すでに出発したれば来援三日を出でぬであろう、諸君努力せよと叫んだ。ために、身は乱刀雨下に寸断せられたが、心の独立はついに侵されなかった。一指だも動かされぬほど縛られながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口を塞ぐごとはできぬ。いわんや彼の心を屈するにおいてをや。

新字:凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたる虞がある。先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえ擲らるるままに恥を忍んで去った。今にしてこれを顧みれば気の毒だと思う。さりとてまったく余の奴隷にならなかったのは、翌日相当の礼を述べ下宿を代えたからである。彼に転宿する余裕ありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます根性が卑屈となる。折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が堅固なりと思うあいだは随分勝手な口をきき、いつ辞めても天下を濶歩する意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことを噂するにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。 かくいったからとて人間の心の中に唯物的拝金的卑屈なる根性があって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。五斗米のために身を屈しても身を枉げても、心はどこまでも直立独歩する者もある。むかし耶蘇教の弟子パウロは新しき宗教を奉じた咎をもって捕縛せられ笞うたれ、獄に投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、傷だらけの体を縛られたまま、 「我は実にみずから幸福なものと思う。願わくは殿下もこの縄を除いてはまったく我の如くあられんことを」 といった。この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。 またむかし武田勝頼が三河の長篠城を囲み、城中食尽きもはや旬日を支え得なかった時、鳥居強右衛門が万苦を冒して重囲を潜り、徳川家康に見えて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍に擒えられ、城に向かい、援軍来らぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主公の大軍すでに出発したれば来援三日を出でぬであろう、諸君努力せよと叫んだ。ために、身は乱刀雨下に寸断せられたが、心の独立はついに侵されなかった。一指だも動かされぬほど縛られながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口を塞ぐごとはできぬ。いわんや彼の心を屈するにおいてをや。

書き下し

凡人の情なさには、僕の身の自由を制裁し得る人、すなわち僕の生活の道を制する人はついに僕の心までも制裁するにいたる虞がある。先に述べた友人は少年ながらもこの事を知りしゆえ擲らるるままに恥を忍んで去った。今にしてこれを顧みれば気の毒だと思う。さりとてまったく余の奴隷にならなかったのは、翌日相当の礼を述べ下宿を代えたからである。彼に転宿する余裕ありしゆえ、心の独立を失わなかったが、この余力なき人はますます根性が卑屈となる。折々僕も見ることであるが、役人にしてその位地が堅固なりと思うあいだは随分勝手な口をきき、いつ辞めても天下を濶歩する意気込みを現すも、一たび辞職を勧告さるればたちまち態度を変え、即日より上官のことを噂するにも敬語を用い、一夜にしてかくまでも変化するかと驚くことがある。 かくいったからとて人間の心の中に唯物的拝金的卑屈なる根性があって、体の制裁によって心が左右さるるものだと断言することは出来ぬ。五斗米のために身を屈しても身を枉げても、心はどこまでも直立独歩する者もある。むかし耶蘇教の弟子パウロは新しき宗教を奉じた咎をもって捕縛せられ笞うたれ、獄に投ぜられ種々の苦を受けたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、傷だらけの体を縛られたまま、 「我は実にみずから幸福なものと思う。願わくは殿下もこの繩を除いてはまったく我の如くあられんことを」 といった。この気象は身こそ自由ならざれ心に独立あるものである。 またむかし武田勝頼が三河の長篠城を囲み、城中食尽きもはや旬日を支え得なかった時、鳥居強右衛門が万苦を冒して重囲を潜り、徳川家康に見えて救いを乞い、再び城に帰らんとして武田軍に擒えられ、城に向かい、援軍来らぬと告げよと命ぜられ、送られて城下に至った時、城を仰いで大声に主公の大軍すでに出発したれば来援三日を出でぬであろう、諸君努力せよと叫んだ。ために、身は乱刀雨下に寸断せられたが、心の独立はついに侵されなかった。一指だも動かされぬほど縛られながらも、なお心中に言わんと欲することを敢然として口に出すがごときは、真の心の独立で、百万の敵も彼の口を塞ぐごとはできぬ。いわんや彼の心を屈するにおいてをや。

現代語訳

凡人の情けなさは、私の身の自由を制する人、つまり私の生活の道を握る人が、ついには私の心までも制してしまう恐れがあることです。先に述べた友人は、少年ながらこのことを知っていたからこそ、殴られるままに恥を忍んで去ったのです。今にして思えば気の毒です。ただ、彼がまったく私の奴隷にならなかったのは、翌日きちんと礼を述べて下宿を替えたからです。彼には下宿を替える余裕があったので、心の独立を失わずにすみましたが、この余力のない人はますます根性が卑屈になります。私もときどき目にしますが、役人で、その地位が堅固だと思っているあいだは、ずいぶん勝手な口をきき、いつ辞めても天下を闊歩するという意気込みを見せているのに、ひとたび辞職を勧告されると、たちまち態度を変え、その日から上官のことを話すにも敬語を使うようになり、一夜にしてこれほど変わるものかと驚くことがあります。 こう言ったからといって、人間の心の中に唯物的で拝金的な卑屈な根性があり、体の制約によって心が左右されるものだと断言することはできません。わずかな俸禄のために身を屈し、身を曲げても、心はどこまでもまっすぐ独り立ちしている者もあります。昔、キリスト教の弟子パウロは、新しい宗教を信じた咎で捕らえられ、鞭打たれ、獄に投げ込まれ、さまざまな苦しみを受けましたが、ついに国王の前に呼び出され、御前裁判を受けたとき、傷だらけの体を縛られたまま、 「私は実に自分を幸福な者だと思います。願わくは陛下も、この縄を除いて、私と同じようになっていただきたい」 と言いました。この気概は、身こそ自由でないが、心に独立のある者のものです。 また昔、武田勝頼が三河の長篠城を囲み、城中の食料が尽きて、もはや十日も持ちこたえられなくなったとき、鳥居強右衛門が万苦を冒して重囲をくぐり抜け、徳川家康に会って救いを乞い、再び城に帰ろうとして武田軍に捕らえられました。城に向かって、援軍は来ないと告げよと命じられ、城下に連れていかれたとき、城を仰いで大声で、主君の大軍はすでに出発したので、来援は三日を過ぎないだろう、諸君努力せよ、と叫びました。そのために、身は降りそそぐ刀の下で寸断されましたが、心の独立はついに侵されませんでした。指一本動かせないほど縛られながらも、なお心中に言いたいことを敢然と口に出すのは、真の心の独立で、百万の敵もその口を塞ぐことはできません。まして彼の心を屈させることなどできるはずもありません。

解説

生活の道を握られると心まで握られる恐れがあると述べつつ、新渡戸は反例としてパウロと鳥居強右衛門を挙げます。縛られた体で、なお言うべきことを言い切った二人です。同時に、辞める余裕のない人ほど卑屈になるという観察も示します。心の独立は精神論だけでなく、いつでも移れる実力と蓄えという現実の裏付けがあって強くなります。勤め先に頼りきらない準備が、言うべきことを言う力になります。
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この章句が説くこと

心の独立パウロ鳥居強右衛門卑屈余力長篠

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