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自警録 / 第九章 心の独立と体の独立・友人を擲った少年時代の追懐

この問題は永く僕の心に蟠っているもので、今日もまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、愚考を述べて世人の教えを乞いたい。 話の順序として自己の恥曝しから始めたい。僕が十三、四のころであった。まだ東京英語学校に、下宿から通学していたとき、友人某が九州の親許より来る学資金が後れたために寄宿料、食料、月謝の支払いに滞りが起こり大いに当惑せるを見、僕は彼を自分の下宿につれて来たことがある。かくいうといかにも義侠心ありげに聞こえるが、実は日ごろ親しく交われる友人間のことゆえ、一時の急を救わんとする自然の友情より起こったことで、あながち誇るべきことではないが、これに反し僕が彼に対する態度は実に恥ずべきものがあった。 それはある夜同室に枕をならべて眠りにつきながらの話に、ワシントンと楠正成との比較論が始まり、僕が楠公を愛国者と称したのを、彼はこれを訂正し、楠公は愛国者でなく忠臣だといった。彼は僕より二歳年長であり、かつ漢学の素養も、より多くあったので、文字の遣い方も正しく、また彼の議論も今より顧みれば正当であったが、なに思いけん僕は突然床よりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて鉄拳を食わし、 「俺の飯を食ってるくせに、なぜ反対するか」 と怒鳴ったことがある。彼は僕より躯幹長大にして、活発にかつ短気の男であったが、この時ばかりは何も手向かいだもせず、擲られたままにその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べ他の下宿に移ったことがある。

書き下し

この問題は永く僕の心に蟠っているもので、今日もまだことごとく解決したとは断言しかねるが、近ごろことに感じたこともあるから、愚考を述べて世人の教えを乞いたい。 話の順序として自己の恥曝しから始めたい。僕が十三、四のころであった。まだ東京英語学校に、下宿から通学していたとき、友人某が九州の親許より来る学資金が後れたために寄宿料、食料、月謝の支払いに滞りが起こり大いに当惑せるを見、僕は彼を自分の下宿につれて来たことがある。かくいうといかにも義侠心ありげに聞こえるが、実は日ごろ親しく交われる友人間のことゆえ、一時の急を救わんとする自然の友情より起こったことで、あながち誇るべきことではないが、これに反し僕が彼に対する態度は実に恥ずべきものがあった。 それはある夜同室に枕をならべて眠りにつきながらの話に、ワシントンと楠正成との比較論が始まり、僕が楠公を愛国者と称したのを、彼はこれを訂正し、楠公は愛国者でなく忠臣だといった。彼は僕より二歳年長であり、かつ漢学の素養も、より多くあったので、文字の遣い方も正しく、また彼の議論も今より顧みれば正当であったが、なに思いけん僕は突然床よりムッと起き上がり、彼の上に馬乗りに乗り、彼の頭を目がけて鉄拳を食わし、 「俺の飯を食ってるくせに、なぜ反対するか」 と怒鳴ったことがある。彼は僕より躯幹長大にして、活発にかつ短気の男であったが、この時ばかりは何も手向かいだもせず、擲られたままにその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べ他の下宿に移ったことがある。

現代語訳

この問題は長く私の心にわだかまっているもので、今日もまだすっかり解決したとは言いきれませんが、近ごろとくに感じたこともあるので、愚かな考えを述べて世の人の教えを乞いたいと思います。 話の順序として、自分の恥をさらすところから始めます。私が十三、四のころでした。まだ東京英語学校に、下宿から通っていたとき、友人の某が、九州の親元から来る学資金が遅れたために、寄宿料、食費、月謝の支払いが滞り、たいへん困っているのを見て、私は彼を自分の下宿に連れてきたことがあります。こう言うと、いかにも義侠心があるように聞こえますが、実は日ごろ親しく付き合っていた友人のことで、一時の急を救おうとする自然な友情から出たことであり、とくに誇れることではありません。これに反して、私の彼に対する態度は、まことに恥ずべきものでした。 ある夜、同じ部屋で枕を並べて寝ながら、ワシントンと楠正成の比較論が始まり、私が楠公を愛国者と呼んだところ、彼がこれを訂正して、楠公は愛国者ではなく忠臣だと言いました。彼は私より二歳年長で、漢学の素養もより多く、言葉の使い方も正しく、議論も今から顧みれば正当でしたが、何を思ったのか、私は突然床からむくっと起き上がり、彼の上に馬乗りになり、彼の頭めがけて拳骨を食らわせ、 「俺の飯を食っているくせに、なぜ反対するのか」 と怒鳴ったことがあります。彼は私よりも体が大きく、活発で短気な男でしたが、このときばかりは何も手向かいせず、殴られたままその夜を過ごし、翌日は丁寧に礼を述べて、ほかの下宿に移っていきました。

解説

第九章は、新渡戸が少年時代の恥を隠さず語るところから入ります。学資が遅れた年上の友人を下宿に泊めながら、議論で反対されると、俺の飯を食っているくせにと殴った、という告白です。友人は手向かいせず、翌日礼を述べて去りました。恩を着せた側が意見まで支配しようとする心の働きを、自分の実例で示しています。上司と部下、発注者と受注者の間でも、立場の差が議論の自由を奪っていないか、確かめる入口になります。
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この章句が説くこと

心の独立少年時代恥恩議論楠公

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