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自警録 / 第八章 世に蔓延る者は憎まる・読者中にも必ずかかる経験あらん

仮りに読者中憫な人に逢いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠の心をもってしたとするも、一方にはその事たるや偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。 読者中病身の細君を親切に看護する者あれば、これを褒める者があると同時に、彼奴め嚊に惚いと批評された経験もあろう。 読者中もし小児に何か教えることがあれば、褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。 また読者中繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後他人の厄介になるまいと貯蓄に志せば吝嗇奴と侮られ、一挙手、一投足、何事にしても、吾人のする事なす事につき非難を揷むことのなきものはない。これが世の中である。 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、 笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ で、何事もせねば非難も憎悪も免れるのである。僕の知人にして、今は故人となったが、生前公職につき藩政に与って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書に綴りて『桜花物語』と題して子孫に遺したが、その人は常に左の古歌を愛吟した。 咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人かに怨みを受けるものである。いわゆる人から邪魔に思われるものである。 佐藤一斎先生の語に、 「罪なくして愆ちを得る者は非常の人、身一時に屈して、名後世に伸ぶ。罪ありて愆ちを免るる者は奸侫人、志一時に得て、名後世に辱ず。古の天定まりて人に勝つとは是れなり」

書き下し

仮りに読者中憫な人に逢いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠の心をもってしたとするも、一方にはその事たるや偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。 読者中病身の細君を親切に看護する者あれば、これを褒める者があると同時に、彼奴め嚊に惚いと批評された経験もあろう。 読者中もし小児に何か教えることがあれば、褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。 また読者中繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後他人の厄介になるまいと貯蓄に志せば吝嗇奴と侮られ、一挙手、一投足、何事にしても、吾人のする事なす事につき非難を揷むことのなきものはない。これが世の中である。 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、 笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ で、何事もせねば非難も憎悪も免れるのである。僕の知人にして、今は故人となったが、生前公職につき藩政に与って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書に綴りて『桜花物語』と題して子孫に遺したが、その人は常に左の古歌を愛吟した。 咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人かに怨みを受けるものである。いわゆる人から邪魔に思われるものである。 佐藤一斎先生の語に、 「罪なくして愆ちを得る者は非常の人、身一時に屈して、名後世に伸ぶ。罪ありて愆ちを免るる者は奸侫人、志一時に得て、名後世に辱ず。古の天定まりて人に勝つとは是れなり」

現代語訳

読者の中にも、きっとこうした経験があるでしょう。 たとえば、読者の中に、困っている人に出会ってこれを救った人がいたとします。自分は何も求めず、ただ一片の義侠心からしたことでも、一方では、それは偽善からやったとか、慈善家ぶっているとか非難された経験があるでしょう。あるいは何か他に求めるところがあってそうしたのだろうと疑われた人もいるでしょう。 読者の中に、親に孝行して特に目立った人がいれば、同時に、あいつは親孝行ぶっていると批評された経験もあるでしょう。 読者の中に、病身の妻を親切に看病する人がいれば、これを褒める者がいると同時に、あいつは女房に惚れ込んでいると批評された経験もあるでしょう。 読者の中に、子どもに何かを教えることがあれば、褒める人がいると共に、やけに物知りぶると非難されたこともあるでしょう。 また、読者の中に、か弱い女性に助言をしたり、その他の親切をしたりして、あいつは少し怪しいと疑われたこともあるでしょう。 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後に人の厄介にならないよう貯蓄に励めばけちだと侮られ、一挙手一投足、何をしても、私たちのすることに非難を差し挟まれないものはありません。これが世の中です。 多く行えば行うほど非難の声は高くなります。世にはびこるというのは、多く行う人のことで、こういう人がいちばん憎まれます。そして何もしない人、あるいは責任のないことをする人がいちばん褒められます。世の中を見渡すと、何の責任ある地位にもいないで、ただ筆先や口先で批評ばかりする人がいちばん評判がよい。これまで局に当たって意志を実行する立場にいなかった者は、いちばん悪く言われないものです。ですから気の弱い者は、 笛も吹かず太鼓も叩かず、獅子舞の後ろ足になっている気楽さよ というわけで、何もしなければ非難も憎悪も免れます。私の知人で、今は故人ですが、生前に公職について藩政にあずかり、大いに尽くした人がいました。ついに怨みを買って、蟄居のうちに亡くなりましたが、自分の経験を一冊にまとめて『桜花物語』と題して子孫に遺しました。その人はいつも次の古歌を愛吟していました。 咲かなければ桜を人が折ることもあるまいに、桜の仇は桜自身なのだ 実にこの歌のとおり、大小を問わず仕事をする者は、必ず誰かに怨みを受けます。いわゆる人から邪魔に思われるものです。 佐藤一斎先生の言葉に、 「罪がないのに咎めを受ける者は非凡な人である。身は一時屈しても、名は後世に伸びる。罪があるのに咎めを免れる者は、ずる賢い人である。志は一時得ても、名は後世に辱められる。古人のいう、天が定まれば人に勝つ、とはこのことだ」 とあります。

解説

善行にも悪口がつくという世の常を、新渡戸は読者自身の経験に引き寄せて並べます。人助けは偽善と言われ、孝行は孝行ぶりと言われ、公務は野心と疑われます。多く行う者が最も憎まれ、批評だけの者が最も評判がよいという観察は、今の職場にも当てはまります。咲かなければ折られない桜の古歌が示すとおり、動く者は的になります。佐藤一斎の言葉は、一時の評判より後世の評価を見よと励ます結びです。
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この章句が説くこと

非難偽善責任批評家桜の仇佐藤一斎

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