自警録 / 第六章 怖気の矯正・『失楽園』に現れた悪魔の姿勢(2)
しかるに『失楽園』を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張ることの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。彼がこの考えを起こした後は、固有の偉大なる身躯があるいは蛙となり、あるいは鳥となり、あるいは蛇となり、種々なる形に変化している。しかしてその変化のありさまを見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、堕落する順序が現れている。 僕はミルトンの『失楽園』を見るごとに、人格の堕落の階段が秩序的に現れているがごとく感ずる。すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見る。 しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと含蓄されているものが、漸々に働くことを称すると同じく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき種子が含まれているある一種の病原が存し、この種子が年とともに蔓延するものである。ミルトンの悪魔もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からず受けていたが、一たび野心という病いの黴菌が胸中に萠したのちは、いかなる方法をもってするも、目的を遂げんと望んだため、最初堂々たる方法で戦ったに反し、後には目的を達するに急となり、目的のためにはいかに卑劣な手段も辞せず、だんだんに堕落し、ついに虫類同然のものに身を変えて幾分かその目的を遂げた。この詩を見る人はその堕落のさまの顕著なるに驚く。
書き下し
しかるに『失楽園』を最終まで読むときは、この悪魔の大将軍がとうてい対等の軍を張ることの不利なるを察し、その後は種々なる計略を用い、神に勝たんとしている。彼がこの考えを起こした後は、固有の偉大なる身躯があるいは蛙となり、あるいは鳥となり、あるいは蛇となり、種々なる形に変化している。しかしてその変化のありさまを見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、堕落する順序が現れている。 僕はミルトンの『失楽園』を見るごとに、人格の堕落の階段が秩序的に現れているがごとく感ずる。すなわち世に行われる進化の階段に正反対して退化の順序が行われているのを見る。 しかして進化というはすでに発芽すべき力がもともと含蓄されているものが、漸々に働くことを称すると同じく、退化もまたすでにもともとその性質において堕落すべき種子が含まれているある一種の病原が存し、この種子が年とともに蔓延するものである。ミルトンの悪魔もはじめは高尚な位地にあり、世の尊敬も浅からず受けていたが、一たび野心という病いの黴菌が胸中に萠したのちは、いかなる方法をもってするも、目的を遂げんと望んだため、最初堂々たる方法で戦ったに反し、後には目的を達するに急となり、目的のためにはいかに卑劣な手段も辞せず、だんだんに堕落し、ついに虫類同然のものに身を変えて幾分かその目的を遂げた。この詩を見る人はその堕落のさまの顕著なるに驚く。
現代語訳
ところが『失楽園』を最後まで読むと、この悪魔の大将軍は、対等の軍勢で戦うことがとうてい不利だと悟り、その後はさまざまな計略を用いて神に勝とうとします。彼がこの考えを起こした後は、本来の偉大な体が、あるいは蛙となり、あるいは鳥となり、あるいは蛇となり、さまざまな形に変化します。そしてその変化の様子を見ると、変わるごとに一歩ずつ小さくなり、堕落の順序が現れています。 僕はミルトンの『失楽園』を見るたびに、人格の堕落の階段が秩序立って現れているように感じます。つまり、世に行われる進化の階段とは正反対に、退化の順序が行われているのを見るのです。 そして進化というのは、もともと芽を出すべき力があらかじめ含まれているものが、だんだんに働くことをいうのと同じように、退化もまた、もともとその性質の中に堕落すべき種子が含まれており、ある種の病原があって、この種子が年とともに蔓延するものです。ミルトンの悪魔も、初めは高尚な地位にあり、世の尊敬も浅からず受けていましたが、いったん野心という病の黴菌が胸中に芽生えた後は、どんな方法を使ってでも目的を遂げたいと望んだため、最初は堂々たる方法で戦ったのに反して、後には目的を達することに急になり、目的のためにはどんな卑劣な手段も辞さず、だんだんに堕落して、ついに虫けらも同然のものに身を変えて、いくらか目的を遂げました。この詩を読む人は、その堕落の様子の顕著なことに驚きます。
解説

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