自警録 / 第六章 怖気の矯正・怖気に処する二種の考え
その後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英雄豪傑ならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人を衒い、なに彼奴らがという態度を持することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚かなる方法であると思った。恐らくは他人にも、かかる借り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己れを欺き、人を欺く芸であるから、なかなか骨が折れよう。 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優れた力がある。しかし彼らはこの力を濫用せぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに酬ゆるに相手を軽蔑しあるいは馬鹿者視したりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖気が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。
書き下し
その後、僕はこの経験を思い出すごとに自分の教訓とすることがある。それは天性英雄豪傑ならぬものが、英雄豪傑を気取り、傍若無人を衒い、なに彼奴らがという態度を持することは、あるいはこの方法で成功するものもあるか知らぬが、自分にははなはだ愚かなる方法であると思った。恐らくは他人にも、かかる借り元気は一時の成功を来たすことがあるとも、これをもって常に用うべき策とすべからざるものと思う。これ消極もまたはなはだしきものである。自分に偉い力がないと思いながら、そのない力をあるかのごとく見せ、力ある人を力なきものと仮定し、己れを欺き、人を欺く芸であるから、なかなか骨が折れよう。 これに反し第二の考えは相手の人には力がある、しかも自分より優れた力がある。しかし彼らはこの力を濫用せぬ。自分に対して善用するだろう。我もこれに酬ゆるに相手を軽蔑しあるいは馬鹿者視したりせず、最善を尽すべしと決心する。双方が共に相許し合い、尊敬と同情をもって結びつけられる。何の怖気が起こるべき理由かあらん、何で怖気の起こるべき余地かあらん。
現代語訳
その後、僕はこの経験を思い出すたびに、自分の教訓としていることがあります。それは、生まれつきの英雄豪傑でない者が、英雄豪傑を気取り、傍若無人を装い、「なに、あんな連中が」という態度をとることは、あるいはこの方法で成功する者もいるかもしれませんが、自分にははなはだ愚かな方法だと思ったことです。おそらく他の人にとっても、このような借り物の元気は一時の成功をもたらすことがあっても、常に用いるべき策ではないと思います。これは消極的もはなはだしいものです。自分に大した力がないと思いながら、その無い力を有るかのように見せ、力のある人を力のない者と仮定し、自分を欺き、人を欺く芸当ですから、なかなか骨が折れるでしょう。 これに対して第二の考えは、相手の人には力がある、しかも自分よりすぐれた力がある。しかし彼らはこの力を濫用せず、自分に対して善用してくれるだろう、自分もまたそれに報いるのに、相手を軽蔑したり馬鹿者扱いしたりせず、最善を尽くそうと決心する、というものです。双方がともに許し合い、尊敬と同情で結ばれます。どうして怖気づく理由があるでしょう、どうして怖気の起こる余地があるでしょう。
解説

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